スキップしてメイン コンテンツに移動

つらいから、やきもち焼きます


 犬を何匹も集めふたつの組に分けて同じことを命じ、一方にはご褒美としてソーセージを、もう一方にはパンを与える研究が行われた。双方、相手側がご褒美に何をもらっているかわかるようにすると、同じことをしてもパンしかもらえない組は次第にいじけ、ソーセージ組を嫉妬した。当然の反応と感じるが、犬にも平等を求める気持ちがあることがわかったと、この実験から研究者は結論づけた。
 人と犬が同じくらい不平等に敏感だとしても、皆がみな等しかったことなんてあるだろうか。
 この世に平等はない、と言い切るとすこし気が楽になる。
 その人が持っている性質つまり個性を尊重しようとする態度と、人は生まれたときから平等であるとする考えは矛盾する。一人として同じ人間はいないのだから、生まれた瞬間から良くも悪くも差がつく。この違い、この差を、他人がどれだけありがたがるか、邪見にするかは時代や国や立場によってまちまちだ。どんな人間として生まれるかだけでなく、生まれてくる時代と場所を選べないのだからどうしようもない。
 とはいえ不平等のまま楽しく暮らせる人はほとんどいないので、どこかで扱いを調整することになる。どこで、どれだけ調整するかが難しいし、あちらを立てればこちらが立たずで、望む通りに釣りに合いが取れるとは限らない。だから、この世に平等はないと最初に言い切っておくと、余計な幻想を抱かずにすむ。
 ただし、これを他人に押し付けると角が立つ。自分がひっそりと、しかしはっきり意識しておけばよい性質のものだ。
 定食屋で常連だけおかずの盛りがよい、というのも不平等だ。でも常連はここに至るまで店にお金を払い続けてきたわけだし、店としては常連の好き嫌いや食べる量をわかっているから手加減できる。一見(いちげん)で、しかも食べ終わってから文句を言うかもしれない客に、特別なサービスがつかなくて当然だろう。要は、常連だからといって盛りをよくしろと求めたり、自慢したりせず、一見であるなら差別されて不平等だと声を荒げる必要もないという話だ。
 と書いておいて、ここまで達観しきれない自分がいる。
 そして、ひいもまた悩める一匹なのだ。
 妻と他愛もない話で盛り上がっていると、どこからかひいがちょこちょこ現れ、私に何度も飛びついてくる。いつもとは限らないが、珍しい出来事ではない。「オカアばっかでなく、私とも!」といったところなのだろう。飛びついてこないときは、暗い眼でこちらを見つめ、視線が合うとばつが悪そうな表情で顔を背ける。漫画のようにフキダシをつけるなら、「そんなつもりで見てたんじゃないから」とセリフを入れるのが妥当な感じがする。
 過日、このようなひいに「やきもち焼いてるんでしょ」と妻が言うと、図星だったらしく、さらなる追及を逃れるように体を丸めて寝たふり、聞こえないふりをした。ひいが布団に臭腺液をつけたことがあったが、汚れた場所を指摘し続けていたら「キャン」と甲高い声で鳴いて、勘弁してと慌てふためいたのが思い出された。もしひいのやきもちを追及し続けたら、同じような展開になっていただろう。
 ひいは、オカアと平等ではないのを知っている。食事のときは、静かに自分のおやつが出てくるのを待っている。ベッドからどけと言われれば、さっと移動する。だからこそ、つらいのであり、やきもちを焼くのだ。だがおまえは、一晩中、布団の中でオトウにくっついているだろ。寄り添ってくるとき、あっちへ行けと言ったことなどないだろ。これらとは別だと言いたいのか。自分を納得させられないのか。平等ではないのはしかたない、でもしかし、と。
 これもまた、人生だ。ひいの場合は犬生だ。生きているがゆえの苦み。チョコレートは苦みがあるから旨いわけで、苦みがあるからチョコレートだ。苦いだけの暮らしではないのだから、よしとするほかない。
 したがって、やきもちを焼くひいを頭ごなしに叱る気にはなれないのだった。

コメント

このブログの人気の投稿

一年

 2011年3月11日午後2時46分、小さな振動が瞬く間に暴風雨に翻弄される小舟のような揺れに変わり、その不気味さと怖ろしさは妻にひいを固く抱きしめさせ、いまにも放り出されそうになる食器を案じて私は棚を全身の力で抑え付けた。わかっていたのはただごとではない大地震に見舞われているという事実だけだった。  このとき私たちが住む街は停電した。電源を失ったテレビは観られず、いったい世の中がどのようになっているのか理解できず、二人と一匹の群れは一塊になって揺れが収まった居間でぼんやりするほかなかった。尋常な気持ちでなかったことは、電池で動くラジオがキッチンあるのに気付いたのがずっと後だったのでもよくわかる。無事だったガスの火に土鍋を掛けて飯を炊き、大急ぎで握り飯をつくり、明るいうちに食事をし、暗くなってからは蝋燭と石油ランタンの乏しい光を群れで囲んだ。光をどうにか絶やさないようにしなければならないと必死だった。  一夜明けて、コンビニエンスストアに行ってみると棚はほぼ空っぽで、私は最後の一袋となっていたポテトチップスを切ない気持ちで非常食料として買った。残りわずかになっていたトイレットペーパーを求めてドラックストアに行くと、すべて売り切れ。米とひいの餌があればなんとかなると私と妻は語り合うほかなかったが、米びつの中に余裕があったわけでなく、どこへ行っても米だけでなくパンも品切れが続いた。いま思い起こすと、春らしい明るい陽射しに似合わず行き来する人の眼は緊張にこわばり、街は静かながらも3月10日までとは違っていた。  あの日以来、ひいは人が感じないほどのわずかな地震の揺れにさえ素早く反応し、すくっと起きあがって背中の毛を逆立て一声吠え、うろたえながら怖ろしげにか弱い鳴き声を喉からしぼり出すようになった。大丈夫と抱きしめても、しばらく動揺は収まらない。  これまでも災害のとき避難場所に連れて行けないひいをどうするか話すことがあった私と妻だが、この懸念はより現実味と切実さを増した。クレートに入れさえすればとりあえず避難場所に連れて行けると聞き、クレートを買い、ひいがクレートの中を好むように躾けようと考えたが、恐がりで神経質なひいが避難場所の環境に耐えられるか疑問になり、壊れた家で二人と一匹で暮らすほかないかもしれないといま悩んでいる。  もともと不安症の私は、いまある生活が根...

ぎっくり腰とひい

 朝、顔を洗おうと前屈みになったとき続けざまにくしゃみが出た。激痛が脳天まで駆け抜け、身動きが取れなくなった。ぎっくり腰だ。このときから一日の大半をベッドで過ごさざるを得なくなった。  寝ていれば腰が楽とは限らない。寝返りを打とうにも体をねじるたび激痛が走る。「ううっ」とか「ああっ」と情けない声をあげて寝ていると、ひいが枕元にやってきてこちらを覗き込む。痛みを堪えてよたよた散歩に連れ出すときはおぼつかない私の足取りなどおかまいなしなのに、しおらしい表情をしている。  クウと小さな声で鳴かれて、腰が痛くて反応できずにいると、じれったそうに鼻先でつんつんと肩のあたりをつつく。「あのあの、あの。動いて」と言っているみたいだ。顔だけでニイーッと笑ってやった。ひいはおもむろに掛け布団に潜りこんできて私の胸にくっつくや、ぐいっ、ぐいっ、とさらに体を押し付けてきた。うとうとしてはっと目が覚めると、いつの間にかひいは仰向けで寝ているやや開き加減の股の間にいて、スウェットのズボンの上から足を舐めている。  ひいよ、そこにおまえがいると腰が痛むんだ。  太ももでひいを押してみた。するとすぐに股の間から出た。この隙に、寝返りを打ち横向きになると、ひいは膝の内側に倒れ込みまた体を密着させてきた。  二、三時間こうしていただろうか。いつまでも寝てはいられないと恐る恐るゆっくり上半身を起こすと、ひいがひょいっと布団から顔を出してこちらを見つめた。 「オトウが動けないから心配だったのか。ごめんな」  ひいの眼は真剣だった。 「ありがとう。ひいのことが好きだよ」  ひいの耳がピンと動きこちらを向いた。 「好きだよ」  眼に安堵の色が浮かんだのがわかった。  このときからひいは「好きだ」の意味を理解したようだ。「好きだ」と言うと眼を細める。  人と犬。なぜ違う生き物がいっしょに暮らせるのか不思議でしかたないが、こんなところに謎を解く鍵があるのかもしれない。

新しい年も私はぬくぬく寝て過ごします

 内外騒がしい中、朝のコーヒーが自宅で飲めて、夜は布団で眠れることを幸せと思わなくてはならないだろう。気分は重くすぐれないが、妻は笑いかけてくれ、ひいは私に寄り添って眠ってくれる。  正月の支度に一生懸命になっていた頃は、カレンダーが更新される日をなぜあれほど一大事と考えていたのだろう。いったい一月が訪れて暦以外に何が変わるというのか。地球の公転は止まる気配すらないというのに。  と言いながらも、小さな鏡餅を供え、小さなしめ縄を玄関のドアに掛ける。この家とこの家の住人である私と妻とひいのために。そして祈る、私はどうなっても構わないが、妻とひいが健康でありますように、と。  ひいはベッドの上、布団に自分の巣をつくってまどろんでいる。  年末も来る正月も関係なく、ひいは健やかに過ごしている。ありがとう、ひい。私たちの群れに欠かせない、ひい。私がかろうじて正気を保っているのは、おまえがそばにいてくれるからだ。もうすぐカレンダーを掛け替える日がくるが、その新しいカレンダーが終わる日までの一年もひいが安心して暮らせますように。