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歯が磨けるようになったのです


  人間にとってのあたりまえが、犬にとってあたりまえとは限らない。
 風呂に入って、爪を切って、歯磨きをするのが面倒なときはあれど、頑として拒む理由が私たちにはない。しかし、ひいにとっては大問題で、どれも大嫌いときている。
 狂犬病の予防注射を打つため動物病院へ行った日、例年のように健康診断をしてもらった。
「お口の中はどうかな」
 と先生がマズルをこじ開ける。
「歯石がちょっとついて──」先生が人差し指の爪を立てひいの奥歯に力をこめた。「ますね。ほら」
 それは一瞬のことだった。ぽろりと歯石の固まりが診察台に落ちた。
 奥歯の歯石は前々から気になっていた。子供用の歯ブラシを買ってきて慣らそうとしたこともある。指にタオルを巻いて磨こうとしたこともある。どれもひいに拒まれ失敗した。しかたなく、歯磨きと口臭予防の効果があるという犬用のお菓子を毎夕食べさせお茶を濁してきたのだった。
 でも、これでは駄目なのだ。やはり本格的な歯磨きをしなければ歯石予防はもとより歯周病は防げない。歯が悪くなれば食事に差し障り、老化を促進させるのは人間と同じ。やらなければ、歯磨きを。
 ペットショップで歯磨き液を買ってきた。まずは入門用として奥歯に垂らすだけでよい製品にした。
「ひい、これはオトウからのお願いだ。ひいには長生きしてもらいたいんだよ。ひいだって、幾つになっても鶏の軟骨をコリコリ食べたいだろ。そのための歯磨きなんだ」
 ひいが大人しくこちらを向いている隙に、とろりとした歯磨き液を指につけて向かって右の唇の奥へ入れ、奥歯にこすりつけた。逃げようとしたが、向かって左にもやった。とりあえず成功したので褒めた。
「偉いなあ、歯磨きができたぞ。お利口だなあ。きれいな口になったなあ。オトウはうれしくてたまらないよ」
 妻もひいを撫でながら、
「いい仔だったね。ほんと偉かったね」
 本音であり、同時におだてでもあった。
 翌日から、夜のおやつが終わるとちょこんと私の前におすわりするようになった。
(なんだかわからないけど、ちょっと変な感じだけど、あれやるとオトウとオカアがすごく喜ぶ)
 こんな気持ちが見て取れた。そして私が指に歯磨き液をつけると、自ら唇をまくり上げるようにまでなった。
 しばらくこのやりかたを続けるつもりだが、指サック型の犬用歯磨き布を使ってももう拒まないだろう。既に、歯に垂らすだけでよい製品を、指を使ってごしごし歯茎を含めて塗り付けられるのだ。ひいは喜ばれたい一心で、歯が磨けるようになったのだ。
 好きな相手に喜ばれたい。これは人間も犬も変わらない切実な気持ちなのだ。

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