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56億7千万年めの彼女



 我が身を振り返って歳を取ったなと思うのは、やたらと豆腐や妻がつくるぬか漬けを旨いと感じ、子供のときあんなに嫌がっていたそうめんを食べたいと願っているときだ。しかし、心は幼いままで我が儘を抑えることができない。喜怒哀楽の喜びと楽しみは錆び付いてきたけれど、怒りと哀しさが気持ちを騒がせ自分を見失う。
 人と煩わしく関わることはめっきり減ったけれど、私が気付かないだけで世の中との複雑な交わりに加わっているのは間違いなく、自分を見失ったとき様々な迷惑をかけていることだろう。
 つい先日、玄関のドアの外に産まれたばかりとおぼしきカタツムリが殻に閉じこもって貼り付いていた。残暑の太陽が日がな一日当たり続ける場所ゆえ、このままでは乾ききって死ぬのではないかと気になった。見殺しにするのは殺生と変わらない。せめてもの罪の償いのため、カタツムリが乾かないよう水を掛け続けた。翌日の朝、カタツムリはその場所にいなかった。命を失うことなく、どこかへ行ったのだろう。
 こんなことをしただけで地獄にいる私に、仏陀がクモの糸を垂らしてくれるなどと驕っているわけではない。私が犯した愚かな行いは無数であり、罪深さはいつまで経っても減らない住宅ローンの元金みたいなものだ。そして、愚行を繰り上げ返済できるものでもない。
 こういう毎日を生きるのが、人というものではないのか。
 しかし、私にはひいがいる。
 ひいは私と妻と一緒に暮らしているだけの小さな生き物だが、彼女が生きている姿は私の荒みがちな心を穏やかにしてくれる。歩いているとき、食べているとき、ぴったり身を寄せてくるとき、眠っているときさえも。救いとは何かと問われれば、「ひいを見てください。それだけで十分です」と言い切る自信がある。
 私にとって彼女は、56億7千万年の修行を経てこの世に現れた弥勒菩薩にも等しい。弥勒菩薩は修行中の名であるから、現世に姿を見せたときの名で呼べば弥勒仏である。56億7千万年とは、私の体が滅びた後のずっと先の時代だと思ってきたけれど、この身が救われる時とは今であり明日だったのだ。ひいとの出会いからの日々のことである。
 ああ書き落として申し訳なかった、妻よ。あなたもまた私に取って菩薩だ。弥勒仏に囲まれて暮らす日々を嘆く私を、どうか許してくれ。


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