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逃れられないものが親から子へ

ひいの散歩をするとき履く靴を秋の終わりに買い替えた。散歩の途中で汚れても苦にならず、雨の日に水がしみ込まず、こんな期待を裏切られるかもしれないから安いほうがよいと、行きつけのスーパーの自転車コーナーの隣りの特価ワゴンから選んだ。特価品とはいえ、名の通ったメーカーのショートブーツだ。箱に、完璧なまでの防水と防寒の効能が書かれている。とはいえ実用一点張りで、アメリカの田園地方の男がピックアップトラックに乗るとき履くような見かけで、いまどきの日本ではダサイと笑われてもしかたない靴だ。
 これが快適この上なかった。箱に印刷されていた説明通りだっただけでなく、気分が楽なのだ。履き心地は元となる木型や材質や製法だけで決まるものでないと思い知らされ、実は気分の軽さがとても重要とわかった。
 靴に凝り、メーカーを決め、店を決めて買っていた十年ほど前は、こんなことは思いもしなかった。靴熱が冷めてからも、スニーカーは趣味ではないと言い、普段履きでも布や合成皮革の靴に抵抗があったり、かたちにこだわったりしてきたのだが。
 数日前、この靴を買った同じ場所に今度はアウトドア用の長靴が並んだ。「ああ、これだよ。これが求めてるものなんだ」と感嘆している自分に気付いたとき、複雑な感情がこみ上げてきた。いつの間にか、私は父そっくりになっていたのだ。
 母は子供だった私に、見合いの席に父が晴天だというのに背広で長靴という出で立ちをしてきた話を幾度もした。父は長靴を履かなければならない職業ではなく、金融関係のそれなりのエリートだった。父のこんなセンスのなさが、子供ながらいやでたまらなかった。
 私が成人してからも、靴箱にきれいな革靴がありながら父はぼろぼろになった安物をガムテープで治して履いていて、ケチなのか自虐趣味なのかと、とてもイライラさせられた。このような私が、特価品の長靴に魅かれるとは。実用一点張りのショートブーツを、華やかなショッピングセンターに行くときも履くようになるとは。スーパーで長靴を買っていたら、毎日、出かける度に履いていたことだろう。
 長靴に関わる遺伝子などというものはないだろうけれど、父から私へ確実に引き継がれたものがある。歯磨きのとき鏡に映る、年々、父に似てくる自分の顔以上にそっくりなものが体と心の隅々にある。
 ひいは千葉県の動物愛護センターで乳飲み子のとき保護されたの…

共鳴する心のうち

ひいが何かの具合で妻にくっついて眠ると、私はもやもやした気持ちになる。おまえの定位置はオトウの脚の間だろ。まずは股に腰を下ろし、その後、脚の間に体を伸ばす。そのままぐっすり眠って、オトウが寝返りを打つと寝相に合わせてひっついてくるのがいつものことではいないか。と、ひいの体温を独り占めしている妻がうらやましくなり、ひいはオトウのことを忘れたのか、とまで思う。なんという見苦しいまでの嫉妬心。
 ひいと眠る心地よさを説明しようにも、一言で表せる単語が見つからない。そして、犬に変わる同じ心地よさも私は知らない。体温と柔らかな毛と重みが渾然一体となった感触がたまらないのだが、電気を使って温める犬のような家電製品ができたとしても、心地よさはひいにとうてい叶わないだろう。ひいは私に安心感を与えてくれる。この程度の自分が必要とされているのが切ないくらいうれしい。
 これでは妻の立場がないような説明になったが、妻がいて、さらにひいがいる日常はこの上もない幸福なのだ。もったいないくらいの身の上である。
 では、ひいにとってはどうなのだろう。
 この問いへの答を、今日、垣間みた気がする。
 朝、動物病院へ一年に一度のワクチン接種を受けるため行った。
 ひいは散歩道にある動物病院へ用がなくても近づいて行くくらいだから、嫌いな場所ではないのは間違いない。ただ、何をされるのかわからないため待合室では怯えている。診療室を出るとほっとするらしく、今日は珍しいことに他の犬に仲よくしようよと自ら挨拶をしに行った。
 帰宅し自室の机に向かった私に、ひいは「キュウ」と切なく何度も鳴いた。小便がしたいのだろうかと外へ出してやったが、切羽詰まった表情でうろうろするだけだった。もしかして、ワクチン接種後の重い副反応が出たのだろうか。苦しいのだろうか。私と妻は心配した。
 とりあえず家に上げ様子を見ることにした。私がひいのそばに付き添っていると、さっきまで切ない声を出していたにも関わらず、のんびり日向を楽しんでいる様子だった。
 ひいは何を訴えていたのか。
 オトウが自分のためにずっとそばにいると確信できたらしいときの、くつろいでいる姿からこちらに伝わってきたものは、抱えている思いを共有できたとする彼女の満足感だった。動物病院でひいはいつもと違うものを体験し、これまでにない何かを感じたようだ。それが不安なのか、不安を乗り越えた…

犬の神様

幼い日の私のそばに神様がいた。
 私にとっての神様は、悪さをすれば罰を下し、善いことをすれば幸いをもたらす、すべてお見通しの存在だった。これは名前を持っている誰かではなかったが確実に気配を感じられ、しかし姿かたちはなかった。
 自分や親さえも持ち得ない、ものすごい能力を持っているもの。自分の今と、この先を左右するもの。唯一絶対の存在だった。
 小学校一年生の秋、バラの棘にトンボの頭を刺して殺した。さっきまで飛んでいたトンボの大きな眼が棘に残る。細長い羽がついた胴体は足下に捨てた。もう一匹、同じように殺した。バラにトンボの頭が二つ並んだ。残酷であることが、私を駆り立てていた。だがこのとき、誰もいないはずの庭に気配を感じた。神様の視線だ。
 私は罰せられ、もうすぐ死ぬことになるだろうと思った。いまだに、自分はあのときのトンボのように命を失うにきまっていると信じているところがある。
 もしかしたら犬にとって人は、幼い日に私の身近にいた神様のようなものなのかもしれない。
 私は神様のように人知をはるかに超えた絶対的なものではあり得ない。だらしなく、無力な生き物に過ぎない。しかし、神話の世界の神々がやけに人間くさく、過ちを犯したり、すぐ癇癪を起こすのに人々があがめ奉っていたように、犬の目が見ている人間は畏怖すべき存在なのではないか。善も悪もひっくるめて、自分の今と将来を司っているものなのではないのか。
 犬は、犬を気が利かないやっかいなものと思っている節がある。自分でさえ気がつかない願望を、人間は先回りしてかなえてくれる。抱きしめられれば、許されたと安堵できる。見守ってくれる。食べ物を、家を与えてくれる。これはまるで楽園ではないか。
 人類が滅び犬が生き残ったとき、犬たちはかつての記憶を頼りに神様と楽園を信じはじめるかもしれない。この神様のありようは、もういない人間そっくりだとしても不思議ではない。
 楽園を追放される恐ろしさは、幾多の物語として残されている通りだ。
 古い物語を引っ張り出してくるまでもなく、捨てられた犬の不幸を知れば十分で、犬にとっての人間の存在を象徴している。
 人と結びつき、自然から遠ざかった犬が悪かったのか。犬を仲間としてきた人が悪いのか。もう、どっちでもいい。一万数千年、いや最近の発見では三万年にもなるかもしれないという、人間と犬の共同生活の結果だ。あまたいる動物の…

一宿一飯の仲

私と妻が朝食を食べようとすると、ひいはテーブルの下にそっとお座りする。脚の間からこちらを覗いているひいに、私は小さくちぎったパンの耳を与える。ひいはがっつくことなくパンの耳を食べ、マズルを引っ込める。しばらくすると、また脚の間に黒い鼻先が現れる。
 ひいはパンが好きだからねだっているだけではないと気付いたのは、一年ほど前のことだった。夕刻になり「餌の時刻がきたよ」と私をせっつくのと、テーブルの下で遠慮気味に自分はここにいると静かにアピールする態度は明らかに違うとわかった。
 テーブルはオトウとオカアが食事をするところで、そこにあるものは自分のために用意された食べ物ではないし、これを奪ってはならないと理解しているのだろう。オオカミの群れでは上位のものから獲物を奪うのは御法度、という秩序の記憶が犬にも脈々と生きていることになる。
 獲物を独占したいのは上位のオオカミにとって本心だろうが、むさぼり尽くすことはせず立場が弱い者に食べ物を分け与える。ここには相手をいつくしむ気持ちがある。なにもオオカミに限った話ではなく、人の世も同じだ。
 ひいはテーブルの下で愛を確認しようとしていると思えてならない。オトウがパンの耳を分けてくれた。私はオトウから認められている。オトウは私のことを思ってくれている。ここが私の群れだ、と。
 犬は三日の恩を三年忘れず、という。論より証拠、ひいは乳飲み子のときから生後六ヶ月まで育ててくれたAさん夫妻をいまだに慕っている。里子に出た犬の同窓会が行われれば、駐車場でAさん夫妻の車を探し出し、お二人の姿を見るや駆け寄ってしっぽをちぎれそうなくらい振る。三年、四年といわず一生涯、恩を忘れそうにない。
 哺乳瓶からミルクをもらい、Aさん夫妻の大切な時間を分けてもらい、風や雨をしのぐ家に同居させてもらったことが恩であり、受けた恩は愛の分け前と理解しているのではないか。
 私が台所に立って鶏ガラからスープを取っているのを、ひいがきちんとお座りして見ていた。
「いい匂いがします。その鶏はどうなるのでしょう」
 といったところか。
 十分に出汁が出たところで鶏ガラを引き上げ、あっちっちと指を水で冷やしながら肉をむしり取る。裂けて喉に刺さると言われる小骨を除く。
 この日、私と妻はレンズ豆のスープを啜り、ひいはむしり取られた鶏肉を食べた。満腹したあとは、ベッドを分け合いみんなで眠っ…

冬がきた日から

我が家から真西の方角、丹沢の山並みの向こうに見える富士山頂が白くなっても、多摩丘陵の端っこはまだ秋だ。
 散歩道に続く家々の庭で柿は色づき、引き寄せられるようにヒヨドリがどこからともなくやってきて居着くいっぽうで、みかんは薄ら青い。気が早いおしゃれな若い女性だけが、体温で熱中症になるのではないかと心配なくらい長いブーツやニットのマフラーで身を包んでいる。
 だが日の入りの時刻は日々刻々と早くなり、時計を見て愕然となる日が続く。この暗がりの中、灯油の移動販売車がやってくるがストーブに火を入れるのにはまだためらいがある。
 そんなある日、ひいがベッドの布団の中から顔だけを出して寝ているのに気付く。冬がきた、と思う瞬間だ。
 ひいのアンダーコートが豊かになり、いつの間にか体がひとまわり大きくなっている。耳の内側も柔らかな毛に覆われ、冷たい風にかじかまないように支度が整う。
 こうしたひいの変化が現れたら、私も冬の生活に入る。
 豚のバラブロックを買い込んで塩やスパイスに漬け燻煙し、来年のぶんまでベーコンをつくる。
 ヨーロッパの森で豚を飼っていた人々は、秋の終わりにどんぐりを食わせ太らせた。それ以前の人々にとって冬のはじまりは、どんぐりで肉づきがよくなった猪を狩る季節だったのではないか。この狩りの先頭に、犬たちがいたはずだ。豚は余すところなく食され、骨の周りの肉や固い筋は細かく叩かれ腸詰めにされ、脚はハムにバラ肉はベーコンにして保存した。
 人が洞窟で暮らしていた遠い時代、焚き火の煙を浴びた肉が腐らず味がよくなったことで薫製が生まれた。昔の犬は、この肉を炎の暖かさに身を委ねながら見上げていたのだろう。私が台所で豚のバラ肉を塩漬けにしているのを不思議そうに眺めるひいそっくりの眼で。
 スーパーで新鮮な肉がいつでも買え、エアコンで部屋を暖める暮らしを捨て去ることはできない。そんな私が冬になってベーコンをつくるのは、豚肉の保存の如何に生死がかかった中世以前の人々からしたら、ままごとに過ぎないのはわかっている。しかし、ベーコンづくりをかれこれ二十年も飽きずに続けてきたのは、体のどこかに眠っている冬を怯える原始の記憶が目覚めるからに違いない。
 ひいは、どうだ。冬の彼女はのんびり屋になって甘えん坊に拍車がかかる。オオカミだった時代から真冬は群れの仲間に密着し静かに凍える季節をやりすごすのが、本能…

オトウは必ず帰ってくる

ひいよ、オトウといっしょに出かけたいのか。しかし、おまえは人ごみを怖がるではないか。喧噪と慌ただしさを我慢すると言うかもしれないが、電車に乗るときはキャリーバッグに入っていなければならないし、いくらチビとはいえおまえが入れるバッグは大きくてとても持ち歩けるものではない。たとえ車で出かけたとしても、犬が立ち入れない場所ばかりなのだ。
 そんなに悲しい眼をするな。どうか連れて行って、と言わんばかりに手脚を揃えた真面目くさったお座りをするな。
 オトウだって、ひいといっしょにいたいのだ。
 オトウはおかあさん子だった。留守番はいやだと駄々をこね、歩くのもいやだと言い張り、幼稚園に通う歳だったのに乳母車に乗って商店街へ買い物に行ったんだ。商店街を行き交う人の視線に気付いたときのオトウのばつの悪さより、乳母車を押しているオトウのオカアの気持ちは複雑だっただろう。だからこそ、オトウはおまえの気持ちがよくわかる。あのときのオトウのオカアの気持ちをいま味わっている。
 オトウがフリースの上着を着たとき。カメラを首に下げたとき。カバンを手にしたとき。車のキーをポケットに入れたとき。ひいはオトウがしばらく帰ってこないことを知っているよな。外出の気配を察してオトウの後を追って家の中を歩くおまえを見ると、切ない気持ちになる。
 だけど、出かけなければならないんだ。
 オトウは電車の中で、ふと立ち寄った喫茶店で、このブログをスマホで見る。ここにはひいの写真がいっぱいあるからね。おまえの写真を見ると、街の煩わしさから救われる。それは幻だけど、すぐそばにおまえがいるような気がするんだ。
 用事を終えたとき、まっさきに思い浮かぶのもひいのことだ。ひいが待っている家にだんだん近づいている、と考えながら街の鬱陶しさをかき分けて進む。家にたどりついたら、おまえとゴロゴロしようと柔らかな毛並みの肌触りを思い出している。敷地の外から家のドアが視界に入った瞬間、玄関にお迎えに出て飛びついてくるおまえの姿が眼に浮かび、あとたった数歩だというのに早足になる。
 いいか、ひい。どこに行っても、オカアとひいがいる群れの巣に帰ってくる。オトウは必ず帰ってくる。

2012年Aさんチームの同窓会

ここ数週間、ひいは落ち着かなかった。何かといえばオトウの車のにおいをかぎ、ドアを開ければ急いで乗り込もうとする。これは、Aさんが保護し里親のもとで幸せに暮らしている犬たちの同窓会の日取りが決まったあたりからのことで、オトウとオカアがせわしく準備をしていたわけでもないのに、ひいは何かを察知したのだ。ひいが人間の言葉をかなり理解できるのではないか、と信じる根拠のひとつである。
 明日は同窓会という金曜の夜、ひいの車への関心は最高潮に達し、部屋にいてもそわそわしていた。私をじっと見つめ、しきりに飛びついてくる。「さあ、行こうよ。すぐ、行こうよ」といった具合でうるさいので、てるてる坊主をつくってやり「明日だよ。明日、晴れるといいね」と諭した。窓辺に吊るされたてるてる坊主を、ひいはじっと見つめ動かなくなった。
 土曜日の朝、いざ出発。東名高速道路から首都高を抜け京葉道路で千葉へ向かう。幕張パーキングエリアでトイレ休憩。ひいはこれから始まるものへ距離を縮めたことを実感しているのか、駐車した車の中から千葉県に降り注ぐ太陽の光を見つめる。ここまでくると、私もあと一息と実感する。渋滞しているようだが、大きく遅刻する可能性はないとカーナビが教えてくれている。さあ、どんどん進もう。
 すいらんグリーンパークに到着すると肌寒い曇り空だったが、ひいはぴょんと車から飛び降りた。そしてなんと駐車場でAさん一家の車を発見し、しがみつくようにしてにおいをかいだ。いとおしみ、なつかしみ、大好きなAさんご夫妻がここにいると確信したらしい。
 貸し切りにした広いドッグランで、ひいは昔の仲間とご挨拶。新しい顔ぶれにも恐る恐るご挨拶。私と妻は飼い主のみなさんと世間話を楽しみ、ひいはがむしゃらに走り回り、Aさんご夫妻に「ひいです! ひいです! 会いたかったです!」と飛びつく。
 毎度のことながら、里親家の群れにひとつの個性があり、一匹として同じ犬がいないのが楽しい。別々の群れで安定した日々を送ってる犬たちが、これをよくわかった上で仲間である人と犬と遊びに興じている。やはり、同窓会はひいたちにとって特別な日なのだ。
 持ち寄った料理で昼食を食べていると雨が降り出した。ぽつんと頬に落ちる雨粒が、やがて豪雨に。予定より三十分ほど早く同窓会を切り上げることになった。それぞれの犬が、それぞれの群れの車に乗り込んで行く。
「今日…

犬と会話する話

犬は人間の言葉がわかるのか。犬と暮らしていれば誰しもが思うことに科学があっさり答えを出し、単語は理解するけれど文法はわからないと結論づけている。でも私には、犬が単語と単語の結びつきを理解しようとしているように感じられてならない。
「ひいは、いい仔だ」の意味を、ひいは自分への評価と理解している。「ひいは、いい仔だから好きだ」には、さらに評価が高まったとうっとり反応する。単純な言葉であっても、ここには文法がある。「ひい」、「いい仔」、「好き」と単語だけつまみ食して聞き取っている可能性が否定できないのはたしかだが、もっと長い言葉にも耳をピンと立てて集中し、幼犬だった頃より理解力が増したことを語彙が増えたせいだけとは言えないような気がするのだ。
 もしかしたらひいは、私と妻の会話を聞き取って何を喋っているか大まかに理解しているのかもしれない。というのも、ひいは群れの動向にかなり敏感で見るもの聞くもの触れるものの変化を見逃すまいとしていて、これなら私たちの会話に注意を払い文法らしきものを憶えてもまったく不思議ではない。
 このように思うので、日々、私はひいにあれこれ話しかけている。「お座り」、「待て」、「よし」などのコマンドだけでなく、何をどう感じているか、これから何をするかなど、子供に話しかけるようにわかりやすい言葉を選び、具体的に、ゆっくり喋る。日本語の基本的な語順を守る。ひいが知っている単語を主に使い、新しい単語を徐々に加える。
 すると、発見があった。ひいは大きな声や命令形より、穏やかなささやきや丁寧な語りかけに反応するのだ。
 小便をしたいと訴えてくるので玄関のドアを開けてやったのに、いつまでもうろうろしているだけだったとする。以前は厳しい口調で「ちっち」とコマンドをくり返していたが、これを「ちっちをしなさい。そこがいやだったら庭へ行こう。好きな場所を決めなさい」などと囁くと小便をするまでの時間があきらかに短くなった。
 これは科学ではないから、犬が人間の言葉を文法に則って理解している証拠とするつもりはない。ただ、犬は世間から思われているほど愚かではなく、限られた世界の中で暮らしているとはいえ様々なことを把握していて、そこには人間の言葉から得られたものもあると考えざるを得ない。
 人間と犬の会話は成立する。もし口と喉の自由が効くなら、ひいには言いたいことが山ほどあるはずだ。

首輪をしていないひい

実家で飼っていた純白の雑種犬ダーリンは首輪を嫌っていた。なにかの事情で外した首輪を着けようとすると、不快そうな表情をして身をよじる。首輪嫌いは終生かわらなかった。対してひいは、首輪に何も感じていないようだ。外そうとしても着けようとしても態度は変わらない。
 ひいにとってどうでもよい首輪だが、私には重要な意味がある。
 首輪には迷子札をはじめとするひいの身分証がついている。ひいが迷子になったとき、身分証が彼女の命を救う唯一の手だてになるかもしれないのだ。もし夜中に我が家が火事になって、ひいを外に放つのがやっとだったとしたら、みんな揃って寝るとき首輪を外しておくのは危険すぎる。こんなことを考える私は、小心で億病なのだろか。
 もうひとつ重要な点は、首輪を外すと別のひいが目の前に現れることだ。
 首輪をしていないひいは、飼い主の欲目だろうが美しい。首周りだけの二センチほどの幅の布にすぎないのに、生き物が持って生まれた最善のかたちを首輪は隠してしまう。口の先から尾の先までの流れるような線の抑揚が、なぜか消されてしまう。だから時々、私は首輪を取ってひいを眺める。こうして、ひいの父と母が、祖父と祖母が、ずっと昔のご先祖さまが与えてくれた肉体に私は感嘆する。
 それはすこしエッチな感覚かもしれず、端正なヌード写真を見て眼が離せなくなるのに似ている。上等な服を纏っている人体よりも天が与えた裸体のほうが心が揺さぶられ、どきどきしてくるのと同じかもしれない気がするのだ。あるいは飼い犬であるひいの中に、野生を発見してどぎまぎするのかもしれない。
 首輪をしていないひいと私の距離は、遠いのか、近いのか、と考えさせられる。首輪が人と犬の主従関係を象徴するものだとしたら、ひいは首輪を外されて私の手から離れたと解釈することもできる。しかし、それでも互いが心を交わし求めあっているなら、むしろ距離が近づいているのかもしれない。こんな微妙さが、曖昧な何かを確かめたいと私に首輪を外させてもいる。
 生まれたままの姿のひいと、洞窟の中で焚き火をして暖をとる原始人の私の姿を夢想する。ひいとともに狩りに出かけ、ひいと獲物をわかち、ぴったりくっついて眠る。外していた首輪を元通りにして、この夢想は終わる。そこには眼鏡をかけ服を着た私と、狩りをしたことのないひいがいる。これはこれで失いたくない平穏な日常だ。
 首輪を外された…

ぎっくり腰とひい

朝、顔を洗おうと前屈みになったとき続けざまにくしゃみが出た。激痛が脳天まで駆け抜け、身動きが取れなくなった。ぎっくり腰だ。このときから一日の大半をベッドで過ごさざるを得なくなった。
 寝ていれば腰が楽とは限らない。寝返りを打とうにも体をねじるたび激痛が走る。「ううっ」とか「ああっ」と情けない声をあげて寝ていると、ひいが枕元にやってきてこちらを覗き込む。痛みを堪えてよたよた散歩に連れ出すときはおぼつかない私の足取りなどおかまいなしなのに、しおらしい表情をしている。
 クウと小さな声で鳴かれて、腰が痛くて反応できずにいると、じれったそうに鼻先でつんつんと肩のあたりをつつく。「あのあの、あの。動いて」と言っているみたいだ。顔だけでニイーッと笑ってやった。ひいはおもむろに掛け布団に潜りこんできて私の胸にくっつくや、ぐいっ、ぐいっ、とさらに体を押し付けてきた。うとうとしてはっと目が覚めると、いつの間にかひいは仰向けで寝ているやや開き加減の股の間にいて、スウェットのズボンの上から足を舐めている。
 ひいよ、そこにおまえがいると腰が痛むんだ。
 太ももでひいを押してみた。するとすぐに股の間から出た。この隙に、寝返りを打ち横向きになると、ひいは膝の内側に倒れ込みまた体を密着させてきた。
 二、三時間こうしていただろうか。いつまでも寝てはいられないと恐る恐るゆっくり上半身を起こすと、ひいがひょいっと布団から顔を出してこちらを見つめた。
「オトウが動けないから心配だったのか。ごめんな」
 ひいの眼は真剣だった。
「ありがとう。ひいのことが好きだよ」
 ひいの耳がピンと動きこちらを向いた。
「好きだよ」
 眼に安堵の色が浮かんだのがわかった。
 このときからひいは「好きだ」の意味を理解したようだ。「好きだ」と言うと眼を細める。
 人と犬。なぜ違う生き物がいっしょに暮らせるのか不思議でしかたないが、こんなところに謎を解く鍵があるのかもしれない。

あるはず

私だけで買い物に出ると、つい余計なものを買っている。
 先日はスーパーにりんごを買いに行って、鶏の胸の軟骨を手に取った。焼き鳥屋でヤゲンと呼ばれるこの部位の、軟骨の歯ごたえと小さな肉の取り合わせがひいは大好物なのだ。ヤゲンに限らず、ひいが喜ぶ様を見たくてお土産を見繕う。それはサツマイモだったり、牛すじであったり、オトウとオカアが食べるものであってもお裾分けが前提だ。
 家に戻りヤゲンを水煮しはじめるや、ひいの期待は高まる。湯気の香りもさることながら、直感的に自分の食べものをこしらえているとわかるらしく、物音がしただけで興味津々となって台所を覗きこむ。火から鍋を下ろしテーブルの上で冷ましていると、食べる権利があるとわかっているから、人間用の食べ物であれば執着しないのに、このときばかりはヤゲンの水煮のそばから動かなくなる。
 これらひいの大好物はおやつとして与えるだけでなく、いつものドッグフードにトッピングする。もし食事に加えないと、冷蔵庫の中のタッパーに好物が隠されていたのを憶えていて、「あるはずだけどな」と怪訝そうな顔をする。そして、いつまでもドッグフードに口をつけようとしない。
「あとで、だ。いつも食べられると思うなよ」
 しかし、あとの楽しみより、いまこのときでなければならないのだろう。私をどこまでも追ってきて「いまほしいの」と見つめる。根比べである。
 ひいにとっておいしいものを食べる喜びは、このうえもない幸せなのだろう。そう思うから、私はお土産を買ってくる。だが、ちょっと違うのではないかと気付いた。これは、朝食のとき私が食べているパンの耳をほしがり、静かに足下でお座りしているひいの表情から見て取れた。
 食欲だけで待ち受けているのではない。私が私の食べものを分け与える意味をひいは理解しているようで、好きなパンをがっつく様子はなく、愛されていることを確認できてしみじみ満足しているみたいなのだ。オトウが独り占めして当然のものを自分はもらえた。自分はオトウにとって特別な存在なのだ。このように理解していると言って間違いない。
 お土産もまた、愛の証なのだろう。
 ひいは誕生日を迎えた。前夜祭として昨日はゆで卵を食べ、今日はふかしたサツマイモを食べた。誕生日の意味はわからなくとも、オトウとオカアの気持ちは伝わったのではないだろうか。

犬は考える

お隣の家で暮らす雑種犬パックンチョ兄弟の白黒君は、女の子であるひいとどうしても仲よくなりたいらしく、日頃のやんちゃさを押し殺しジェントルに振る舞おうとしていて微笑ましい。しずしずとひいに近づき、キュウと囁くように鳴き、そっと耳のにおいをかぐ。内弁慶で外ではびびり屋のひいの性格を知って、頭を働かせ行動しているのが見て取れる。男の子の立場から、かなり的確な判断をしていると言える。
 恋にかぎらず、犬はあれこれ考えている。
 甘噛みひとつとっても、どこまで強く噛めるかさぐりを入れる。もっと噛みたい、しかしこれ以上は相手を傷つけるかもしれない、という思慮が窺い知れる。ただ欲望に従うだけでは安寧とほど遠い生きかたであることを、犬は知っているからこそ考えるのだろう。
 犬が群れのボスに従い秩序を保つのは、暴力による報復が恐ろしいからではないとも言える。暴力は秩序の対局にある。恐怖によってまとまりが生まれたとしても、平和とは呼べない。もちろん力があるものに逆らわないほうが、力があるものに愛されるほうが、いろいろ得なはずだ。しかし、いきなり吠えかかったり、いどみかかってくる犬を、犬は嫌う。これは犬と人間との関係でも同じだ。乱暴な人間がいつも犬から主として認められるとは限らず、暴力をふるえば犬が従うなどということはない。互いを尊重しあうところに秩序が生まれ、そして平穏な暮らしと秩序は切っても切れない関係にある。
 敵対するものに対しても、犬は考えてから態度を決める。
 十数年前にCM撮影のロケハンのため石垣島に行き、見渡す限り緑一色の牧草地に迷い込んだ。いつの間にか犬の群れに取り囲まれ、じわじわ距離を縮められていると気付いたときは引き返すという選択肢が既に現実的ではなくなっていた。全速力で走って逃げても手遅れだったろう。
 目の前まで迫った犬たちは怒りの表情をあらわにし、それぞれが意思を交わしあっているのがわかった。低いうなり声をあげるもの、鼻先に皺を寄せるもの、すべての視線が私に集中している。へたに動けば、この緊張状態は暴発し一瞬にして無数の牙が襲ってくる。
 一触即発の状況となって、私にできることは挨拶だけだった。その場にかがみ込み、ゆっくり犬たちに手のひらを差し出す。すると一匹が余裕綽々とやってきて、用心深く手のひらのにおいをかいだ。この犬が群れのボスらしい。しばらくにおいをかぎ、私の…

世界でいちばんお姫さま

ひいは四年前の春に我が家にやってきた。このとき生後六ヶ月だった。すぐ新しい暮らしに馴染んだように見えたが、一週間ほどするとペットシーツ以外の場所でわざと小便をしはじめた。たとえば私と妻が会話をしていて相手にされなかったり、望んでいることを理解されなかった場合に拗ねていたのだ。だが、こんないじけた態度はやがて消えた。甘えたい気持ちを、どのように表したらよいか悟ったのだろう。
 では甘えかたが巧妙になったかというとそうではなく、遠慮しなくてもよいと気付いたらしい。これには、ひいが望んでいることを私が容易に察してやれるようになったのも関係しているようだ。ひいはこちらを見つめ、希望を心に念じる。すると瞳が雄弁に語りだす。私はこの望みをかなえてやる。それならどんなときも率直に甘えればよいとなる。
 これは頼みごとに限らない。くつろぎたいと思い、愛情を独占したいとき、ひいは当然のことのように私にしなだれかかり体重を預けてくる。そうでなくとも、何気ない素振りで体の一部をくっつける。眠るときは、私が寝返りを打つたびどうしたら触れ合える面積が大きくなるか確認しながら寝相を変える。すべてを受け入れられているとする確信があるかのごとく、ここに遠慮などない。先の例で言えば、夫婦で会話をしていても関係なく二人の間に割り込んできたり足下にきて、私に体を押し付ける。
 遠慮が消えたのは自信の現れだ。
 そして、どうも私のひいへの気持ちを見抜かれているような気もする。私にとってひいはペット以上の存在で、中年になって授かった娘に似たようなところがあると言えなくもない。無条件に愛おしいのだ。このような父性本能につけこんで「オトウはちょろい」とまでは思っていないだろうが、オトウなら先回りして気付いてくれて当然と考えていそうだし、甘えたい気持ちを拒絶されないと信じるようになったのだろう。
 自信はいいが、「私だけ見て。気付いて」と、お姫さま気取りの気味がないとは言い切れない。お姫さま気取りは思い上がりの最たるものを意味するし、度を超す手前で妻がひいを叱るのは躾として正しい。でも群れの平和が乱されないかぎり、四六時中ではないのだからある程度は許してやりたいと思う。なぜかと言えば、ひいは女の子だから。ひいは犬の祖先の野生のオオカミのように相思相愛の夫を得ることはないので、たとえ別物であっても、女の子としての幸せの…

どうしてここに

なぜ、ここに犬がいるのだろう。と、ひいの姿を見て不思議な気持ちになるときがある。私と妻が望んでひいと暮らすようになったのだから家に犬がいてあたりまえなのだが、まったく違う生き物なのに人の暮らしにすっかり溶け込んでいる様子が妙だ。
 気がつくと家に見ず知らずの者がいて、その平然と暮らしている様子にひどく戸惑うが、事情を知らないのは私だけという事態が起こったら何を信じたらよいかわからず呆然となるだろう。まさに、こんな感じだ。
 ほんの一瞬だけ去来して何ごともなかったように消え去る気持ちと、日常のひいとの生活と、どちらが幻なのか考えるのはおかしいとわかっている。しかし、ふいに訪れる奇妙な感覚はあまりに生々しくて私をどきりとさせる。
 もちろん、ひいがいない生活は考えられない。
 いや、ひいがいなかったとき私はどのように暮らしていたかなかなか思い出せなくなっている。
 いったいどんな朝の目覚めだったのか、どんな一日の終わりだったのか。私と妻はどんな会話をしていたのか。記憶を遡ろうとしても、ずっとひいと一緒だったように思えてならない。いまの生活から、ひいを引き算した残りがかつての日々だったとするのも違うような気がする。私の思い出と感覚はつくり変えられ、元に戻れなくなっているようだ。
「なぜ、ここに犬がいるのだろう」と目の前に別世界が現れるとき、私は我に返っているのかもしれない。ひいがいるのはどこが起点かわからないずっと前からではなく、ひいがいる理由もはっきりした事情があってのことで、空気や水のように私に最初から用意されていたものではないのだ。
 犬を飼おうと言ったのは妻だ。
 それは自分が犬と暮らしたかったというより、すっきりしない日々を送っていた私を思っての提案だった。何かと言うと理由を付けて近所のお宅の門のそばにいるゴールデンレトリーバーに会いに行っていた私を見て、家に足りないものがあり、それが犬だと慮ったのだろう。こうして彼女は里親募集サイトを探し回って、ひいに一目惚れした。
 ひいはジグソーパズルの最後の一ピースだったのだ。
 これが、ひいが我が家にいる理由だ。私にとっても、妻にとっても、たぶんひいにとっても、群れというパズルは完成されなければならなかった。こんなことさえ忘れていた。
 のみならず、妻がいなかったときの生活の記憶が曖昧になっている。ともすると、ずっと一緒だったかのよう…

ももちゃんの話

ひいの散歩道となっている緑道は、強い夏の日差しが木々で遮られ、涼風まで吹いて、まるで林の中の小径のようだ。ところどころ枝分かれをしながら十五キロも続いているこの道を、朝夕は犬たちが飼い主とともに行き来する。ももちゃんは、そのなかの一匹だ。
 定年退職したとおぼしき飼い主のおじさんと散歩をしているももちゃんは、柴犬とポメラニアンの雑種らしい限りなく白に近いベージュ色をした小さな犬だ。体型と毛並みは柴犬、眼の丸みとマズルの短さはポメラニアンに近い。いつもおじさんのすこしだけ後ろをゆっくり歩き、ひいを見てはしゃくごとも威嚇することもなく、そばにきてもぼんやりたたずんでいる。
 初対面からだいぶ経って、ももちゃんはやっとひいの口元のにおいをかいだ。じれったいくらいゆっくり一歩一歩近づいてきて、二、三度鼻先を動かしたかと思うとおじさんの足下へ戻って行った。おっとりした性格なのは間違いないが、それ以上におじさんのことしか眼中にない様子だ。
 おじさんはももちゃんがかわいくてしかたないらしく、愛娘を見守る父親みたいに目尻が下がりっぱなしだ。そして、ひいに話しかける口調まで幼い子をあやすような言葉遣いになっていて、この様子から家でのももちゃんのかわいがられようが想像できる。
 私はももちゃんが飼われるようになったいきさつも、おじさんがどこの誰なのかも知らない。しかし、ももちゃんの性格は生まれつきもさることながら、ほかの犬たちがそうであるように、おじさんとの生活によって育まれたものが大きいと言えそうだ。心の拠り所を得、大切にされ、ももちゃんは満ち足りているのだ。
 ももちゃんとおじさんが緑道を遠ざかって行く。
 ひときわ柔らかな空気が後ろ姿を包んでいる。
 ひいよ、おまえは幸せか? ただ、それだけが気がかりだ。おまえの幸せは、私たちの群れの幸せなのだから。

もう、そのことはいいの!

寝室の電灯をつけると、ひいはいつも通りベッドの上で熟睡していた。
「これ、なんだろう」
 妻の視線を追ってベッドの端を見ると、シーツに小さなシミがあった。シミの正体はわからないが、夜更けにシーツを換えなければならないほどの汚れではない。よく気付いたものだ。
 さて寝ようと思ったが、気付かないままならどうでもよいものが、気になりだすときりがない。
 寝汗のシミではない。だったら、なんだ。どうも、ひいが関係しているように感じる。ほんの少し小便を漏らしてしまったのか。
「ねえひい、これなんだと思う?」
 妻がシミを指差す。
 ひいは薄目を開けたまま反応しない。聞こえないふりをしているようにも見える。
「ひいが悪さしたんじゃない?」
 妻はシミの横を指でつつきながら言った。
 ひいはすくっと起き上がり、シミのにおいを嗅いだ。そしてプレイバウのように前半身を低くし、鼻先でシミの場所から妻の指をどけようとした。それでもシーツをつつき続けると、必死の形相で激しく首を振ってマズル全体で指をはらいのけようとする。
「臭腺液じゃない?」
「臭腺液だな」
 間違いなさそうだ。
 犬にとって臭腺液が出てしまうのは恥ずかしいことなのだろうか。それとも、寝床には臭腺液を漏らしてはならないもので罪の意識が働くのだろうか。いずれにしても、指摘されるのは相当いやなようだ。
 あまりにひいが必死になるので、妻はわざとまたシーツをつついた。そのたびひいは指にいどみかかる。私もやってみた。同じことが繰り返された。
 こんなことを続けていたら、ひいがキャンと甲高くも弱々しく鳴いた。
 ひいの狼狽して困り果てたさまに、ごめんと詫びるほかなかった。
 恥ずかしさや罪の意識だけでなく、なかったことにしてほしいというのは、なかなか複雑な感情の動きだ。もしひいが人間の言葉を話せるなら、私たちとさして変わらないことを喋るのかもしれない。
 キャンという鳴き声は、
「もう、そのことはいいの!」
 といったところか。
 夜が明け、食事と散歩をすませたひいは、ぼんやりソファーに横たわっている。私はひいの気持ちを読み取りたくて、丸くて黒い目をじっと見つめた。そして、胸の内でもういちど「ごめん」と謝った。

傘と棒としっぽ

実家で飼っていた白い雑種犬ダーリンは、ひいのように臆病な犬ではなかったがたたんだ傘をとても恐れた。木の棒やパイプを上に向けて手にした人間がいるだけで警戒した。
 元はと言えばダーリンは、海岸近くにめぐらされた柵の中で飼われていた野良同然の犬たちの一匹だった。いまどきだったら動物虐待で保健所に通報されても不思議ではない場所で育ったのだ。
 父が見初めてもらってくるまでのことは、生まれてしばらくして海に投げ捨てられたが自力で生還して飼われるようになった生い立ちや、前の年に生まれた姉ミグの耳を噛み切った逸話くらいしかわからない。このような暮らしをしていたら、人間から傘や棒で殴られていても不思議ではない。
 当時としては珍しい中型犬の座敷犬として安穏と暮らし、家族の誰一人としてダーリンを殴る者などなかったが、心と体に染み付いた恐怖はそう簡単に消えなかったのだろう。
 頭の上に拳を振り上げられても、ひいは表情ひとつ変えない。
 棒を持って行けば、遊び道具がやってきたとわくわくしはじめる。
 ひいは乳飲み子のとき兄弟姉妹とともに動物愛護センターに持ち込まれ、他の赤ん坊の犬とともにビールケース大のプラスチックの箱に詰め込まれていた。このような出自でも、Aさんに救われてからこのかた人間に殴られたことはない。人間が殴りかかってくるなんて思ってもいないに違いない。それどころか、そもそも殴られるとはどんなことかすら知らないのだ。
 世の中に知らなくてもよいことはある。
 顔を洗おうとしてぎっくり腰になった私がベッドで身動きできないまま仰向けに寝て養生していると、ひいがやってきて横っ腹にぎゅうと尻を押し当てたた。そしてこのまま伏せの姿勢になり、しっぽをぱたんと私の腹に乗せた。
 腹の上を真一文字で横切るしっぽ。いったいひいが何をしたいのかわからないまま、動けない私はとりあえず眠ろうとまぶたを閉じた。それからずっと腹の上にしっぽの感触があった。
 どの犬も、しっぽはやたらな扱いをされたらいやがる。それを私に乗せるのは気を許しているからなのか、それとも「無防備にこうするワタシのことわかって」というアピールなのか。
 どんなに家族に溶け込んでいても、ダーリンはこんな甘えかたをしなかった。しなかったのではなく、できなかったのかもしれない。

警戒!警戒!

外へ出たいとひいがせがむ。
 小便をしたいのか、それともおもての世界を見たいのかわからないが玄関のドアを開けてやった。
 外へ出ると、まず空を仰いでにおいをかぎ、ゆらりゆらりと舞っているアゲハチョウを目で追っていたかと思うと、顔をきっと道路へ向けた。何かを警戒し、誰もいない道路のほうをじっと見ている。鋭い目と引き締まった表情が、野生のオオカミのようだった。
 ひいには何かが見えるのか? それとも何かを感じるのか?
 オトウには、白く焼けたコンクリートの道と、無人の荒野のように静まり返った家並しか見えない。
 しかし、ひいは一点を見据えたまま動かない。
 どれくらい経ったろうか、汗で眼鏡が滑り落ちはじめたとき、ひいは鼻先を地面に向けて辺りをうろうろしてから家の中へ戻った。いつも通り玄関の上がりかまちに前脚を乗せ、私が肉球を拭くのを舞っている。「あんよ」とコマンドをささやくと、右前脚、左前脚、右後ろ脚、左後ろ脚と自分から順に脚を上げた。
 小走りに居間へ行ったひいは水を飲んでいる。
「オトウ、なんでずっとこっち見てるの?」
 といったふうに小首をかしげて振り返ったとき、もうそこに野生のオオカミはいなかった。黒い丸ボタンのような目は、家で人と暮らす犬のものだ。
 どちらも、ひいだ。
 どちらのひいが好きかと問われたら、両方兼ね備えているから信じられると答えよう。人間だって、同じだ。

やきもち焼きのひい

机の前の壁に、実家で飼っていた白い雑種犬ダーリンの写真がピンで留めてある。
 ダーリンがテーブルの下に もぐりこんでいる所を腹這いになってシャッターを切ったのは憶えているが、そのほかのことはすべて忘れた。この写真を撮る前に何があったのか、なぜダーリ ンはテーブルの下にいたのか、ほかの家族はどうしていたのか、写真に痕跡は残っていない。それでも、ダーリンが悠々と自由を味わいくつろいでいたのはわか る。瞳がすべてを物語っている。
 犬の気持ちは偽りなく瞳に現れる。
 昨夜、夕食を終えて二人と一匹でくつろいでいるとき、私は妻の足の裏を指圧した。土踏まずを親指で念入りに押しつつ顔を上げると、ひいがこちらをじっと見つめていた。
「どうしたんだ」と訊いてみた。いつもなら耳をぴくりと動かすところなのに微動だにせず表情も変えなかった。
 続いて、妻の手のひらを指圧した。
 ひいは私から妻へ視線を移した。ただならぬ目つきだった。
 それはかなり真剣に異議申し立てをしているみたいであり、視線以外の手だてで納得がいかないものへ抗議できないつらさのようなものが瞳に凝っていた。膨らみきって、いつ割れても不思議ではない風船。そんな瞳だった。
 ひいは指圧を受ける妻にやきもちを焼いていたようだ。
 かわいそうになって妻の手から指を離すと、ひいは私に体重を預けてしなだれかかり動かなくなった。ずっと、こうしたかったのだろう。
 ひいが嫉妬をあらわにするのは、これが二度目だ。
 ひいを動物愛護センターから救い出し育ててくださったAさんの飼い犬ハク君が私のひざの上に乗ったとき、鼻に皺を寄せ低いうなり声をあげた。
 あれはハク君たちの群れから離れ堂々と怒れる立場になっていたからできたこと。オカアには恩があり、オカアのことは好きで、歯向かってよい相手ではないのを知っているから、やきもちを焼いても耐えるほかなかったようだ。
 なんだ、おまえは。いつだって、かわいがってやってるじゃないか。体中を撫でてやるだけでなく、目を細めてよろこぶ耳のマッサージだってしている。それに、眠るときはいつもオトウにくっついているだろ。
 しかし、ひいにとってはそういう問題ではないのだろう。
 人間にだって、あんな気持ちになる瞬間はある。まあでも、ほどほどにしとけよ。

3,300キロの想い

歩き続けてアメリカ大陸をほぼ横断した犬がいる。
 車で旅行中だったボビーはミシガン湖の南方のインディアナ州オルコットで野犬の群れに襲われ飼い主からはぐれてから、太平洋岸のオレゴン州シルバートンにある自宅まで直線距離で3,300キロを半年間かけて戻ってきた。1924年のできごとだ。
 3,300キロと数字を目にしても、私は距離をまったく実感できなかった。自宅がある横浜から青森まで車で旅行したとき、距離計が往復で1,300キロくらい回った記憶から凄まじく長い道のりだったろうと想像するのみだ。もう一往復しても、3,300キロに届かない。
 しかも、地図の上に定規で線を引いたようにはまっすぐ歩けるはずがない。犬はカーナビどころか地図さえ持っていない。3,300キロをはるかに上回る道のりを、ボビーは一頭きりで歩き通したのだ。
 やんちゃ者だったボビーは木の根を掘り返そうとして前歯を三本失っていて、馬に蹴られた傷跡が眼の上にあった。この一目でわかる特徴から、後に多数の目撃情報が寄せられた。
 疲れきったボビーを家に迎え入れ餌を与えた人がいる。一緒に暮らそうとしたが、ボビーは食事が終わると足を引きづり外へ出て、あっという間に地平線のかなたに消えた。
 自宅まであと110キロに迫った地点で、足を血だらけにし眼を真っ赤に腫れ上がらせたボビーは老婦人の介護を受けた。疲労は極限に達していた。このときも老婦人のもとを去り、自宅へ向かって歩き出した。
 こうした目撃情報の点と点を結ぶと、ボビーは見知らぬ土地を西へ西へ、ひたすら歩き続けていたことがわかった。
 何を想い3,300キロ先の自宅を目指したのか。
 飼い主との群れに戻りたい、この一心だったろう。
 ひいよ迷子にだけはなるな、すべての犬よ迷子になるな。いまの私は無力だが、震災で被災した犬たちよおまえらのつらさは痛いほどわかる。そして、厄介者とされ捨てられる犬たちの切なさは計り知れないものがあるだろう。
 どの犬にも距離などものともしない群れへの想いがある。この想いを裏切れるものではない。

巣の中

ひいはオカアに叱られた。
 風呂場でオトウに洗われ、脱衣所で体を拭かれるや居間へ飛び出し、居間と廊下をぐるぐる際限なく駆け回ったせいだ。引き続いてシャワーを浴びていた私は目にできなかったが、たぶんちびくろサンボで木の周りを走り続け溶けてバターになった虎みたいだったのだろう。
 そのあとまだ湿り気が残る体をずっと私にしなだれかけて離れなかったのは、叱られてバツが悪くオトウに救いを求めていたに違いない。こんなとき身の置き所がなく感じられるのは人間だっていっしょだ。叱られたことより、身の置き所がないほうがこたえる。
 騒動が一段落して、ひいは寝室のベッドの上で寝ていた。
 寝室は家のいちばん奥にあり、二つある窓の一方は雨戸のシャッターを閉めきり、もう一方は厚いカーテンがかけられている。天井まである本棚の向こうには私がいる。薄暗さと静かさとオトウの気配とで、ひいがもっとも落ち着ける場所だ。
 拗ねているのかと思い、そっと近づいて行った私に気付いて上げた顔は素直なものだった。ああ、これでよし。
 叱られたことをさっさと忘れたというよりも、群れの巣の中にいられる安心感や巣の居心地のよさが、ひいの心をいつも通りのものにした。オトウとオカアとひいの三角形が整い、身の置き所は揺るぎない。
 お嬢様暮らしで苦労知らずのひいだが、オトウとオカアとひいのためだけの巣があるありがたさは知っている。
 遠くで夏休みの小学生のはしゃぎ声がしている。でも、誰もひいの邪魔をしないし、オトウとオカアに悪さをするやつもこないだろう。私もこの群れと群れの巣があることを幸せに思う。

男の子じゃないんです

妻がひいの似顔絵を描くと、どれも男の子に見える。
 以前、ドッグランで「シェパードの仔ですか?」と声をかけられて、「いやいや雑種で、もう成犬なんです」と答えたときも、話の流れからどうも男の子と思われているみたいだった。だから訊かれてもいないのに、「女の子なんですよ」と付け加えた。
 口が黒いことが、ひいを男の子に見せているようだ。
 それでなくても世の中では、犬は男の子、猫は女の子に喩えられる。
 しかし、ひいはれっきとした女の子として犬界の端っこではもてもてだ。
 お隣の家の通称パックンチョ兄弟は散歩道でひいと出くわすと、二匹揃って立ち止まりフセをして動かなくなる。なぜフセなのか。どうして、犬語で「遊ぼうよ」の意味のプレイバウではないのか。
 フセは優位のものに出会ったときの体勢らしいが、やや年上とはいえびびり屋のひいがパックンチョ兄弟より優位というのは変だ。
 フセの理由をパックンチョ兄弟と同じ男族として考えてみたのだが、前足をかがめてお尻を持ち上げるプレイバウでは勢いがありすぎるので、ひいを脅かさないようにしているとしか思えない。つまりレディーに気に入られるためひかえめに、しかしここから動かないと猛烈にアピールしているのだろう。そこまでされても、ひいは怖がっているだけなのだが。
 犬からだけでなく、私から見てもひいはやはり女の子だなと感じる。
 私と妻、つまり群れの男と女への態度に違いがあって、妻には何歳になっても子供か妹のように甘え、私には第二夫人として甘え頼っているらしきところがある。
 体を密着させてくるとき私にはしなだれかかるようであり、見つめてくる瞳にもやけに感情がこもっている。以前の雄の飼い犬たちは、群れのボスであった父にこのような様子ではなかった。
 これは、ひいに対してこうあってほしいと願う私の気持ちが見せる幻だろうか。ひらたく言えば「あの子は俺に気がある」というアホな男の思い込みかと自問自答してみたが、若いときこうして散々痛い目にあってきた反省はあるし、ひいの私への態度は妻も認めるところだ。
 こんなことを書いていると、人間の女の子に相手にされなくなった中年男の悲哀ばかりが漂うので、このあたりでやめておく。
 でもやっぱり、ひいは男の子じゃないんです。

犬の熱中症についての覚え書き(ひい熱中症になる2)

先日はひいが熱中症になったことで、ご心配をおかけしました。いまは元気に餌を食べ、本日の散歩は無事終了しました。この機会に、あらためて犬の熱中症についてまとめておきたいと思います。

○ 突然、症状が現れる
蒸し暑さの中での散歩だったが、家に戻って部屋に入るまではいつも通りの状態だった。症状が現れるまで、これといった予兆はなかった。

○ 症状
観察例がほかにないので、すべての犬の熱中症に共通するかわからないが下記のような状態になった。
1. 腰が抜けたようになった。
2. 前脚も力がこもらなくなった。
3. 全身から力が抜け、ぐったりした。立っていられない。
   〈ここまでの状態を見て、
    犬が食べてはならない食品を口にしたのか疑った〉
4. 白目の部分が充血した。
5. 舌を出し、呼吸が荒くなった。
6. よだれの量が増え、止まらなくなった。
7. 体温がいつもより高く感じられた。

○ 応急処置
1. もっとも手っ取り早いのは水をかけて体温を下げる方法らしい。(ひいが風呂嫌いのため水をかけられなかったが、容態によっては必要な処置だったかもしれない)
2. 保冷剤を薄手のタオルなどにくるみ、太い動脈が通っている首筋と太ももの内側を冷やす。(我が家では保冷剤を用いたが、ビニール袋に氷を入れた氷嚢でもよいのでは)
3. 首筋と太ももを冷やし続けたが、苦しそうだったため頭なども冷やした。
4. 空調が可能な場所なら、エアコンを効かせる。
5. 水を飲める容態もしくは容態が落ち着いてきたら新鮮な水を与える。スポーツドリンクと水を1:1で割ったものを勧める情報もある。(手元にスポーツドリンクがあったため、希釈したものを与えた)
6. 容態がよくない場合は、体を冷やしながら動物病院へ。

※我が家の例では、回復後に大量の小便をしたがいつもより尿の色が薄かった。これは大量の水分(スポーツドリンクと水を1:1で割ったもの)を摂取したためか、腎臓の働きが一時的に弱ったためか不明。
なおいつもより色の薄い尿が続く場合は、腎臓が弱って正常な尿がつくれない状態を危惧したほうがよいかもしれない。

○ 所感
1. 健康な犬でも、熱中症になり得る。
2. 短時間、蒸し暑い状態に置かれるだけで熱中症になり得る。
3. 屋外では、人間より体高が低い犬は地面や路面の輻射熱を受けやすい。
4. 上記した応急処置をしても、すぐ回復しない。30分から1時間…

ひい熱中症になる

朝から暑いので、散歩は短縮コース通称「緑道」にした。「リョクドウ」という言葉をひいは知っていて、コマンドのひとつにもなっている。たしかに「リョクドウ」を選ぶと散歩の距離は短く、目的地の緑道は大きな木陰が長く続き、どんなに暑い日も涼しい風が流れているのだが、そこまでの道のりと帰り道は陽を遮るものがない。
 散歩から戻ったひいは、突然、腰が抜け前脚にも力がこもらなくなりふらふらしはじめた。四本の脚は壊れた椅子のようにそれぞれ妙なかたちになり、ソファーの背もたれのクッションで体を支えるのがやっと。しかも呼吸は荒く、よだれが止まらない。目も充血している。
 とっさに何が起こったか訳がわからず、不安で頭の中が真っ白になった。
 体に触れると、あきらかに体温が高い。熱中症だ。
 部屋にエアコンを効かせ、冷凍庫から出した保冷剤で動脈が集まる首筋と太ももの内側を重点的に冷やす。
 かなり危険な状態に見えたので、妻はインターネットで犬の熱中症対策を検索して調べた。水を掛けて体を冷やすのが体温を正常に戻す手っ取り早い方法らしいが、風呂嫌いのひいが体の自由が利かないまま興奮しかねないので、保冷剤で冷やし続けることにした。
 ソファーに腰掛けた妻の太ももの上に身を任せだらりとしたひい。舌を出し、荒い呼吸が止まらず、傍らにいる私の脚に大粒のよだれが滴る。あごを妻のひざに乗せまぶたを閉じているのが、苦しさのためか心地よさのためかはっきりしない。
 この状態が三、四十分続いた。
 犬の熱中症対策法によれば、スポーツドリンクを水で二倍に薄めたものを与えるのがよいらしい。私は保冷剤でひいの体を冷やす手を休め、スポーツドリンクが入っている冷蔵庫を開けた。このときまでぐったりしていたひいが、顔を上げ上半身を起こしこっちを見た。
 これはいつもの、「あの大きな箱から何か出てくる」と期待する動作だ。
 ああよかった。ここまで回復したのだ。
 そして、ひいはソファーに寝たまま水で割ったスポーツドリンクをぺちゃぺちゃなめた。
 ひいは今、エアコンを点けた寝室のベッドの上で寝ている。
 コーヒーカップ一杯ぶんの水割りのスポーツドリンクを飲み干し、ヨーグルトを食べ、さっそく飲んだぶんだけ小便をし、階段を駆け下りられるまでになった。
 ひとまず安心だが、本日は安静にさせなければならないだろう。

専属モデル

ひいは知らないことだけれど、オトウは昔、写真を撮ってわずかばかりお金をもらっていた。それでゆくゆくは、小さなスタジオがある事務所を構えて、アシスタントを雇えればいいなと考えていた。だから売り込みのために、あちこちの雑誌社を訪ね歩いたりもした。世界的な写真家ばかりが仕事をしている雑誌の編集部に乗り込んで行ったなんて、思い出すだけでどっと冷や汗が出る。
 その頃、知り合った年上のやはり写真を撮っていた人は、オトウと違って人を撮ることを仕事にするのではなく、モノを撮る専門家になろうとしていた。いまこの人はどうしているだろうと、ときどき思う。やはりモノを撮り続けているのだろうか。
 なんだかいろいろあって、オトウは機材を売り払い写真をほとんど撮らなくなって、いまのオトウになって行ったのだが、あのとき小さなスタジオがある事務所を構えていたらどうなっていたか想像もつかない。いずれにしろ、毎日無数にシャッターを切っていた日から二十余年過ぎた。
 またいっぱい写真を撮ろうと思うようになったのは、ひいがやってくると決まったときだ。これは、どんな人でも子供が産まれるとカメラを買おうと思うのと同じ気持ちだったろう。それでいくらなんでもフィルムの時代ではないからとデジタルにしたのだけれど、分相応はこれくらいとカメラはほどほどのものにした。
 こうして、ひいはオトウの専属モデルになった。
「ひいは美人さんだ」と褒めると、オカアはひいに「そんなことどうでもいいよね。普通よね」と言う。
 たしかに、普通だろうな。
 でも、モノを撮る専門家になろうとしていた人は言っていた。同じオーブントースターを撮っても愛があるかないかで別物になる、と。
 念力の話ではない。どの方向から光を当てて陰影をつくるか案配し、わずかな光の角度にもわずかな光量の調整にも心を砕く。ひとことで光と言うけれど、柔らかな光から鋭い光まで無限に幅がある。こんなことは愛がなかったらやっていられないし、オーブントースターのいちばん美しい姿を見つけられるのも愛あればこそ。
 ひいに美人さんが潜んでいる。隠れていた美人さんが現れたのを見逃さずシャッターを切るのが私は好きだ。かたちあるものとして定着させることに心が躍る。そういうことなのだ。
 今日もひいの中に美人さんがいた。どこかへ行ってしまう前にシャッターを切った。このときオトウは生意気さだけで生きてい…

あのねとどっすーん

テーブルの下にもぐりこんだひいが顔だけ出して私を見ている。妻は台所で料理を鍋から皿へ移そうとしている。妻の様子を見張っていたわけでも、料理の手順を知っているわけでもないのに、ひいはそろそろ私たちの食事がはじまるとわかっているのだ。そして、食事が終わるのをテーブルの下で寝そべって待つことになる。
「あのね、あのね、もうすぐご飯なの。ご飯の間、ここで待ってるの」
 私と妻は、ひいが見せる態度に勝手な吹き替えをつけて遊ぶ。
「あのね、あのね」はひい語訳の定番みたいなもので、何か伝えたげな彼女の顔を見ていて自然と浮かんできたものだ。不器用な真剣さというか、気持ちが先走って言いたいことが出てこないというか、まあそんな感じ。アクセントは〈あ↑の↓ね↓〉である。
「あのね、あのね、なんだかうれしいの気持ち、オトウもわかって」
「あのね、あのね、カリカリした歯磨きの棒ほしいの」
「あのね、あのね、もう寝たいの、オトウもくるの」
 といった具合。
 勝手な吹き替えではあるけれど、このあとの私たちへの反応を見る限りまんざら誤訳ではないようだ。
 夜、寝床に仰向けに横たわると、ひいは冬なら私の両足の間に、暑い季節は私の横にぴったりくっつく。このままでは寝付けないので横向きになり足を緩やかに曲げると、ひいは起き上がって暗闇で何やら動き、どっすーんと勢いよく倒れ込んで私の太ももと尻に背中を強く押し当てる。
 私は寝相がよくないからいろいろなかたちになって寝ているけれど、くの字になればくの字のくぼみに、への字になればへの字のくぼみに、そのたびにひいはどっすーんと倒れ込んで密着する。これが朝まで続く。
 くっついて一緒に寝たい気持ちもさることながら、どっすーんの遠慮のなさに私を無条件に信じてくれているのだと感じる。そして、「あのね」の表情も同じものだろう。
 小さな子供だったとき、大人はみんな信頼できて、どんなことも最後はうまくいくものだと信じていた。たとえ、叱られても、何かが私を泣かせたとしても信じられたのだ。
 ひいは、あの日の私なのかもしれない。

Aさんチームどうしてるかな

ひいがいない、と思ったら妻が仕事部屋にしている和室にいた。ぐたっと長くなって寝ている姿を見るまでもなく、私も暑くてへばっているわけだから涼しい場所を探し出したことがわかる。ひときわ暑い日の暑い時刻、なぜか寝室と私の部屋は蒸し風呂のようで、妻の部屋だけ風通しがよいのだ。
 私と妻が穫れたて茹でたてのとうもろこしを台所でつまみ食いしているときも、いつものひいなら気配を感じ取ってやってくるところだが、畳の心地よさに勝るものはないのか姿を見せない。
「あのですね、ふーっと音がして、冷たい風が出てきて、湿気がなくなるのは使わないのですか」
 ひいはエアコンを心待ちにしているのかもしれない。
 私は床屋に行って3mmのバリカンでガリガリ髪を刈り上げ坊主頭になったからよいものの、ひいは体中に毛が生えている。しかも汗がかけないから、舌で体温調節をするほかない。大きめの立った耳は放熱の助けになっているのだろうが、それで追いつくものではなさそうだ。
 最近のエアコンは大型テレビより消費電力がすくないという話を聞くからスイッチを入れることをさほど恐れなくてよいのだが、まだあとちょっと辛抱という気がしないでもない。まだ七月、いやもう七月ではあるのだが。
 南向きの居間は、まさに温室となって30度を超えている。これでは扇風機は温風器でしかない。我が家が温室ということは、犬だけの留守番が長いお宅はもう限界にきているのではないだろうか。
「Aさんチームのみんな元気かな」
 と妻が言った。
 Aさんはひいたちを動物愛護センターから救い出してくれた方で、チームとはAさん宅から巣立っていった犬たちだ。リュウ君、マロン君、ふうかちゃんはひいの兄弟姉妹、まげちゃん、ラピスちゃん、みのりちゃん、ジブラ君、もっともっといる犬たちを妻は一頭ずつ名前を挙げていった。そこには特別会員であるAさんの飼い犬、チコリちゃん、珀君がいて、預かり犬となっているバニーちゃん、ちびちゃんもいる。
 みんな何ごともなく夏を乗り切ってほしい。
 なぜって。ひいに兄弟姉妹がいて、縁のある犬がいることが、たとえ毎日会う顔ぶれでないとしてもとても愉快だ。そしてひいが我が家にこなければ、一生、知り合うこともなかった人々を身近に思えることがうれしい。いつまでも続いてもらいたいものだ。
 チームの犬はみんなそれぞれで、飼い主のかたがたもそれぞれで、群れもそれぞれ…

気がつけば七夕

やけに湿度が高く、妻は頭が痛いとつらそうにしている。私は食欲が落ち、朝食のパン一枚でさえ食べるのに一苦労だった。空模様は、いまより悪くなることはあっても、よくなることはないと断言できそうだ。
 と、言っているそばから雨が降ってきた。
 こんな日はおとなしく暮らすほかない。
 ひいはと言えば、あまり関係ない様子で、ベッドで寝ていたかと思うと何かが気になるらしく居間を探検している。
 ぐだぐだしていても仕方ないので、我が家の重要物件のひとつである糠床をかき回す。
 かき回した糠床に、みるからに健康そうなぶっくり太った茄子を漬ける。
 近所には農家の人がやっているコインロッカー式の直売所と、畑のそばのプレバブ小屋の直売所があって、旬の新鮮な野菜がふんだんに手に入る。いろいろややこしい世の中ではあるけれど、直売所で旨い野菜が安く買えることを幸せと思わなくてバチが当たるだろう。
 糠漬けができあがる頃合いを忘れないように、台所のホワイトボードに漬けた日時を書き込むことにしている。
 壁のカレンダーに視線を向けると、今日は七月七日。
 忘れていた。七夕の日だったのか。
 そうだとしても、我が家は頭痛と食欲減退と茄子を糠床に漬けた日でしかない。星に願いをかける歳ではとうになくなり、願いがあっても心温まるほほえましいものになる自信はないのだった。
 でも、ひいはどうだろう。
 あまり余計なことは望んでいないようだ。
 ひいはいつも通りが続くことを願っているように思う。それはたぶん、オトウとオカアがいてひいがいて、朝がきて、夜がきて、また次の朝がくることが大事といったもの。あとは、「群れの大切な巣なんだから変なヤツくるな」くらいだろうか。
 それは「平和」の二文字なのではないのか。この二文字のほかに、一文字でも加えたらだいなしになる。
 ひいよ、竹飾りと短冊の用意がないから、ここにちゃんと書き留めておく。
 今夜、星は見えないだろうけれど。

ひいへの手紙

満月さんがブログでひいのことを紹介してくださった。
 ほんとうはこの日記の紹介なのだが、恥ずかしいので「おまえのことだよ」とひいに伝えた。もしかしたら、どこかに出かけたとき「これが、ひいちゃんですか」と誰かに声を掛けてもらえるかもしれない。「よかったな、ひい」
 この満月さんの一件で、「犬と生きる、ひかりと暮らす。」を書き続けてずいぶん経つなとしみじみ思った。ひいが我が家にやってくるすこし前のことから書いているので、その点ではタイトルに偽りはない。よくもまあ、続いたものだ。
「犬と生きる、ひかりと暮らす。」の正体はなんだろう、とも考えさせられた。
 日記と言って間違いはないけれど、日記は自分が自分のために書くもので、そればかりではないような気がする。オトウとオカアの話の種にもなるし、ひいを知っている人への近況報告でもあるし、ぜんぜん知らない人が読んでくれているだろうと頭の片隅にある。だけど、まだ何か違うものがある。
 この文章を書いている今もそうなのだが、頭の中にひいの顔があって、キーボード打つ指が止まるたび、「ひい、どう思う」と話しかけている私がいる。
 ひいに手紙を書いているようなものだ。
 ひいはインターネットなんてものを知らず、そんなところに自分宛の手紙が書かれているとは思ってもいないだろう。
「手紙ってなんですか」
 と何もわかっていないのだ。
 手紙というのは、その人に伝えたいことを書いたもので、その人だけが読めるものだよ。まあこれは、いろんな人が読めちゃうんだけどね。
 この手紙は、書くのにうんうんうなることもあるけれど、そんなときでも私は楽しんでいる。ひいとじゃれあっているときよりも、楽しいかもしれない。なぜかとても、ひいを身近に感じられるのだ。
 いつか、この手紙がひいにも読めるようになるときがくる。手紙を読んで、笑ったり、怒ったり、恥ずかしがったりしながら、オトウがそこへ行くのを持っていてくれ。まだ、ずっとずっと先のことにしたいけれど。
 親展。ひい様。



※満月様、ありがとうございました。ぜんぜん知らない人が、ひいのことを知ってくれたかと思うと、とても愉快です。

なんて不器用な生き物

「次、どうしますか」
 私を見つめるひいの眼が語りかけてくる。
 好きにすればいいのにと思うけれど、犬にとってはそうもいかないものらしい。
 おまえには、勝手に生きるという選択肢はないのか。
 猫なら自分がやりたいようにやりたいことをするだろう。猫に限らず、野原を駆ける鹿も、空を飛ぶ鳥も、やりたいようにしている。
 犬は、なんて不器用な生き物なのか。
「好きにしていいんだぞ」
「そうは言いますけど、オトウとオカアとひいの群れですから」
 反論というよりも、ひいは釈然としない思いかもしれない。
「ひいよ、オトウがいなくなったらどうするんだ」
 ひいは、まだ私を見つめていた。
 残酷なことを言ってしまったと後悔した。ひいに人間の言葉がすべてわかるなら、泣かせていたところかもしれない。
 庭の木で餌付けをすると、鳥が集まってくる。鳥が集まるのは餌があるからにすぎず、餌がなくなれば鳥は去って行く。これは当然だろう。
 しかし、ひいは餌だけのために我が家に居るのではない。ドッグランでおいしいおやつを差し出してくれる人がいても、帰るとなると我が家の車にまっすぐ向かう。
 また、犬のボスの代わりに私たちに順位づけをして服従しているわけではないのは、初対面であっても人間と犬の違いをはっきり見極めていることから見て取れる。
 人はパンのみにて生くる者に非ず、とマタイ伝第四章ある。犬も餌のみにて生くる動物に非ず、だ。人からの愛を失い、愛を信じられなくなった犬は、ひと目でそうとわかるほどやさぐれる。人間がそうであるように。
 そしてはじめから、生きる目的が餌だけではない犬という生き物が、この世にいたわけではない。
 オオカミが1万5千年前から人間と生活をともにしながら犬になった。犬は人間の狩りを助け、人間を外敵から守り、狩りの時代から牧畜の時代への道筋をつけ、牧畜の時代となってからは家畜の番をした。人間は犬によって大きく変わった。犬もまた、人間と切っても切れない縁で結ばれた生き物へ変わった。
 狩りの手助けをし、家畜の番をし、人間の生活に溶け込んだことで、犬は動物界を裏切ったと言う人がいる。裏切りという言葉が正しいか否かは別にしても、動物界に帰る場所がなくなったのは確かだ。
 そうまでして、身勝手で思い上がりが激しい人間なんてものに、犬は1万5千年もの間、愛想をつかさなかった。このような犬を、人間が「かわいい」と言い表し…

ひいの世界

ひいは朝の散歩の時刻を知っている。どんなに早起きをした日も、寝坊をした日も、「散歩はきらいだけど、うんちはしなくちゃならないし」と気乗りしない感じでいつも通りの時刻に私たちの前に現れる。
 夕方の食事の時刻も知っている。以前は午後六時に餌をやっていたが、一時間前からそわそわしだすので、押し切られるかたちで特別なことがない限り午後五時が食事の時刻となった。いまは午後四時過ぎにそわそわしはじめて、五時を過ぎると「あの、あの、忘れてませんか」と態度が変わる。これは日が短くあっと言う間に暗くなる冬も、日が長い夏も、まったく関係ない正確さだ。
 まるで、ひいは時計を持っているようだ。
 その時計は、遅れたり進んだり、電池がなくなれば止まる時計より、よっぽど狂いがない。
 ひいが持っているものは時計だけではない。
 私や妻が外出から帰ってくるすこし前に、気配を察知して玄関へ向かう。そんな高性能なレーダーも身につけている。
 私が外出したときは、こうだ。まず私が身支度を整えはじめることでオトウがどこかへ行くことを知り、なんとなく寂しそうな、しかたないなといった風情になる。私が出かけたあとのひいは、妻によればしばらくオトウの帰りを待っているが、すぐ戻ってこないとわかると寝室のベッドへ行き、私が帰ってくるすこし前に居間などへ移動する。私が玄関のドアを開けると、そこにはひいがいてキュウキュウ啼きながら飛びついてくる。どうも最寄りの駅に到着するかしないかくらいの、足音さえ聞こえないところに私がいることがわかるらしく、これは不思議と言うほかない。
 私や妻が帰るまでの時間はばらつきがあるが、「もうすぐ戻ってくる」とわかるのはいつものことだからまぐれではない。
 いったい、どのような世界にひいは生きているのだろうか。
 私が知らない、ひいの世界を覗いてみたい。ありのままに、見えているもの、聞こえているもの、感じ取っているもの、考えていることを知りたい。
「ひいになってみたい」と言ったら、他人には「なにわけのわからないことを」と笑われるだけだろうけれど。

ぼうっとしてる

ひいがソファーに横たわり、だらんと投げ出した両前脚の間に顔をはさんでぼんやりしている。眠っているような起きているような。
 ひいは退屈なのだろう。
 苦髪楽爪と言うけれど、ずいぶん爪が伸びている。
 たぶんひいに苦労はないだろうし、苦労しているとしたらかわいそうだ。だから楽をして爪が伸びるくらいのほうが、私としては気が楽である。まあ、ひいの場合、何があっても毛が伸びることはないけれど。
 ひいは退屈だとしても、群れがあれこれ慌ただしいのも考えものだ。
 三年前の秋、ひいはひどい下痢をした。日頃、粗相などしないのに居間に泥のようなうんちをし、嘔吐と血便もあったので重病の可能性を考えなければならなかった。
 下痢が治ったかと思うと、今度は右耳の先にできものができて、その重さで耳が半折れになった。これは犬にしかできない皮膚組織球腫というもので、感染するものではなく、どうして発症するのか未だにわからないだけでなく治療法もないとか。
 日に日に皮膚組織球腫は大きくなり、毎日かさぶたから出血した。命に関わるものでないとはわかっていても、完全に治るまでの半年ほどは気が気でなかった。なにせ、「あまりに大きくなって治らないようなら、耳の先を切るほかないかもしれません」と動物病院の先生に言われたのだ。
 病気がらみでは、血液検査で出た数値から末期的な腎臓病と言われ、分析ミスとわかるまではオトウとオカアは泣いて暮らした。
 ここまではもっぱら私と妻があたふたしたできごとだが、ひいにとって落ち着かない日もある。
 ひいは群れの空気を敏感に読む。
 私がいらいらしたり落ち込んでいると、これがいけない。「どうしたの」とずっとこちらを見つめ、自分では解決しようのない息苦しさに戸惑っている。このときひいは、私たちがひいの病気を心配したり悲しみを感じているときと同じつらさを味わっているのではないか。
 つくづく、ひいに申し訳ない。
 だからこそ、何ごともない日はありがたい。
 ぼうっとしているひいの傍らで、私もぼうっとする。

しあわせと欲望

雨が降っている。特別な予定や約束はない。
 楽しいかと問われたら、よくわからないと答える。つらいかと問われたら、もしかしたらそうかもしれないと答える。かといって、絶望しきっているわけではない。つまり、いつもと変わらない一日になるだろう。
 ひいは私たちより早く目覚め、同じベッドの上でオトウとオカアが起きるのを待っていた。私たちはぼんやりした寝起きの頭でひいに語りかけ、ひいを撫でる。しばし、こうして時を過ごす。
 ひいは餌を食べ、私たちは朝食を食べる。
 ひと休みしたら散歩に出かける。
 散歩から戻ったひいは、ベッドで丸くなる。
 これでよいのだろうかと、ひいの飼い主として思う。もっと劇的なできごとを、ひいにつくってやらなければならないかもしれないと。そうしなければ、私たちの群れの大切な時間がもったいないのではないか。しかし、どうしたらよいかわからない。
 安直かもしれないが、オカアは料理の片手間に鶏の端肉を茹でてやり、オトウはスーパーの精肉コーナーに鶏の軟骨や牛すじ肉をみつけると買ってきて、おやつを楽しみにしているひいが喜ぶさまを、同じくらいうれしい気持ちで見守る。
 丸くなってうとうとしているひいに体をぴったりつけて、ゆっくり繰り返し胴を撫でてやる。ひいの呼吸がすこしずつ早くなり、ふうと大きなため息をつく。満足したのだろう。
 しかし、まだまだできることがあるような気がする。
 なあ、ひいどうしたらいい。
 このように訊かれても、ひいは困るだけかもしれない。
 それとも、「アウアウ」、「クウ」、「○※△◎□」と喋ったときは、「私が言いたいことをすぐわかってほしいの」と言うかもしれない。
 ひいの声の意味はだいだいわかり、それらはおしっこをしたいなどたいしたものではない。
 ひいはこんな毎日でよい、ということなのだろうか。
 この焦りに似た不安は、際限なくふくらみ続ける私の欲望を鏡に映し出したものかもしれない。

赤ちゃんとお嬢さん

ひいの朝の散歩をしようと妻と家を出たとき、さほど遠くないところでトラックのものらしきエンジンの音がした。もしかしたら宅急便の車かな、と思った。
 というのも、この日、届く予定の荷物があったのだ。
 いつも通りの散歩コースをしばらく行くと、やはり宅急便の車で、ご近所の家へ届けものをしたドライバーに「カトウさん」と声をかけられた。荷物がやってきたのだ。
 ひいの引き綱を妻に渡し、私は家へ駆け戻った。
 その後、何が起こったか。
 妻の話によれば、ひいは家に帰ると決めて来た道を戻りはじめたそうだ。
 ここまでは散歩が好きではないひいにありがちなことである。
 その次が、あらあらというべきか、困ったものだというべきか、ひいはこの世の終わりのような声でヒイーヒイー啼いたのだった。
 虐待していると見られそうで気が気でなかった、とは妻の弁。
 ひいは宅急便で荷物が届いたとはわからないだろうから、オトウがいきなり走り出して家に戻ったのが非常事態と感じられたのかもしれない。それにしても、いい歳をした犬が取る行動ではない。
 つい最近のことだが、私が部屋着のまま外へ出て、しばらく庭の雑草抜きをして玄関に戻ったら、ひいがやけに切なそうな風情でクウクウ啼いて、まるで何時間も外出して帰ってきたときのようにすがりついて離れなかった。
 ひいは私が遠出をするときの着替えなど支度の手順を知っているので、これが仇となって、せいぜい一、二分で戻ってくるはずなのにおかしいと混乱したのだろう。
 これがいわゆる分離不安の症状かもしれないが、宅急便を受け取りに家に駆け戻ったときも、雑草抜きをしたときも、ひいのそばにオカアがいたではないか。ひいとオカアは仲がよいし、信頼関係もしっかりしている。しかも、私と妻がいっしょに買い物に出るなどしたときは、その間、留守番ができる。
 だから、赤ちゃんともうすぐ四歳を行ったり来たりしているとするほうがしっくりくるかもしれない。なにごともなければ、顔つきからしてがらりと変わってお嬢さんになりきり、余裕綽々、優雅に時を過ごしているのだし。
 ほら、人間にもこういう人はいるでしょう。

おまえの母さん

「おまえの母さん、どこにいるんだろうな」
 毎日のように、ひいに話しかける。
 ひいは眼が開かないうちに兄弟姉妹とともに捨てられた。もっと母さんのおっぱいを飲みたかっただろうし、母さんにくっついて眠りたかっただろう。
 もしかしたら、そんなことは忘れてしまい、育ての親のAさんがひいにとって母さんなのかもしれない。捨てられてAさんの家に行くまでは切ない話だから、忘れてしまっていたほうがよいのかもしれない。
 しかし私は、ひいの犬の母さんに会ってみたい。
 ひいが千葉の動物愛護センターに捨てられたことを考えると、母さんは千葉のどこかにいるのだろう。仔犬を産んだのなら、郊外か田舎で外飼いだったに違いない。外飼い以前に、放し飼い同然だったのかもしれない。
 千葉の動物愛護センターの様子を、犬の保護活動をしているボランティアの人たちが撮影した写真で見ると、ひいによく似た犬がいて、母さんがまた赤ん坊を産んだのではないかと思えてならないときがある。赤ん坊を産むたび、飼い主は仔犬を捨てるのかもしれない。乳飲み仔や育ち盛りの仔から引き離される母さんの気持ちはつらいだろうに。
 いずれにしても母さんは、ひいが娘盛りになっているとは知らず、そもそもひいのことは憶えていないかもしれない。あのときひいはまだ犬らしい姿になっていないほど幼く、しかも別れから四年が経とうとしている。ひいと出会うことがあっても、見知らぬ犬がきたと怪しんで吠えるのではないか。
 そうだとしても、ひいの母さんに娘は楽しくやってるよと言ってやりたい。
 ひいは母さんのおっぱいを存分に飲めなかったぶんを取り戻すかのように、私たちが朝食のコーヒーに入れるミルクの残りをうれしそうに飲んでいる。母さんに甘えたい気持ちがそうさせるのか、人間のオトウとオカアといっしょにベッドの上で寄り添ってゴロゴロするのが幸せみたいだ。
 贅沢はさせられないけれど、ひいはとりあえず群れの中に居場所を見付け、小さな家を安住の地にしている。それ以前に、二酸化炭素を充満させた部屋に送り込まれず生きていることだけでも、あり得ないほど小さな確率の幸運だった。
 あなたの仔はひかりと名付けられ、ひいと呼ばれ、こうして今日も平々凡々な一日を生きていますよ。
 ひいの上に拡がる空は、ひいの母さんがいるところまで続いている。
 母さんとひいに、同じ朝、同じ夜が、訪れている。