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9月, 2012の投稿を表示しています

犬は考える

お隣の家で暮らす雑種犬パックンチョ兄弟の白黒君は、女の子であるひいとどうしても仲よくなりたいらしく、日頃のやんちゃさを押し殺しジェントルに振る舞おうとしていて微笑ましい。しずしずとひいに近づき、キュウと囁くように鳴き、そっと耳のにおいをかぐ。内弁慶で外ではびびり屋のひいの性格を知って、頭を働かせ行動しているのが見て取れる。男の子の立場から、かなり的確な判断をしていると言える。
 恋にかぎらず、犬はあれこれ考えている。
 甘噛みひとつとっても、どこまで強く噛めるかさぐりを入れる。もっと噛みたい、しかしこれ以上は相手を傷つけるかもしれない、という思慮が窺い知れる。ただ欲望に従うだけでは安寧とほど遠い生きかたであることを、犬は知っているからこそ考えるのだろう。
 犬が群れのボスに従い秩序を保つのは、暴力による報復が恐ろしいからではないとも言える。暴力は秩序の対局にある。恐怖によってまとまりが生まれたとしても、平和とは呼べない。もちろん力があるものに逆らわないほうが、力があるものに愛されるほうが、いろいろ得なはずだ。しかし、いきなり吠えかかったり、いどみかかってくる犬を、犬は嫌う。これは犬と人間との関係でも同じだ。乱暴な人間がいつも犬から主として認められるとは限らず、暴力をふるえば犬が従うなどということはない。互いを尊重しあうところに秩序が生まれ、そして平穏な暮らしと秩序は切っても切れない関係にある。
 敵対するものに対しても、犬は考えてから態度を決める。
 十数年前にCM撮影のロケハンのため石垣島に行き、見渡す限り緑一色の牧草地に迷い込んだ。いつの間にか犬の群れに取り囲まれ、じわじわ距離を縮められていると気付いたときは引き返すという選択肢が既に現実的ではなくなっていた。全速力で走って逃げても手遅れだったろう。
 目の前まで迫った犬たちは怒りの表情をあらわにし、それぞれが意思を交わしあっているのがわかった。低いうなり声をあげるもの、鼻先に皺を寄せるもの、すべての視線が私に集中している。へたに動けば、この緊張状態は暴発し一瞬にして無数の牙が襲ってくる。
 一触即発の状況となって、私にできることは挨拶だけだった。その場にかがみ込み、ゆっくり犬たちに手のひらを差し出す。すると一匹が余裕綽々とやってきて、用心深く手のひらのにおいをかいだ。この犬が群れのボスらしい。しばらくにおいをかぎ、私の…

世界でいちばんお姫さま

ひいは四年前の春に我が家にやってきた。このとき生後六ヶ月だった。すぐ新しい暮らしに馴染んだように見えたが、一週間ほどするとペットシーツ以外の場所でわざと小便をしはじめた。たとえば私と妻が会話をしていて相手にされなかったり、望んでいることを理解されなかった場合に拗ねていたのだ。だが、こんないじけた態度はやがて消えた。甘えたい気持ちを、どのように表したらよいか悟ったのだろう。
 では甘えかたが巧妙になったかというとそうではなく、遠慮しなくてもよいと気付いたらしい。これには、ひいが望んでいることを私が容易に察してやれるようになったのも関係しているようだ。ひいはこちらを見つめ、希望を心に念じる。すると瞳が雄弁に語りだす。私はこの望みをかなえてやる。それならどんなときも率直に甘えればよいとなる。
 これは頼みごとに限らない。くつろぎたいと思い、愛情を独占したいとき、ひいは当然のことのように私にしなだれかかり体重を預けてくる。そうでなくとも、何気ない素振りで体の一部をくっつける。眠るときは、私が寝返りを打つたびどうしたら触れ合える面積が大きくなるか確認しながら寝相を変える。すべてを受け入れられているとする確信があるかのごとく、ここに遠慮などない。先の例で言えば、夫婦で会話をしていても関係なく二人の間に割り込んできたり足下にきて、私に体を押し付ける。
 遠慮が消えたのは自信の現れだ。
 そして、どうも私のひいへの気持ちを見抜かれているような気もする。私にとってひいはペット以上の存在で、中年になって授かった娘に似たようなところがあると言えなくもない。無条件に愛おしいのだ。このような父性本能につけこんで「オトウはちょろい」とまでは思っていないだろうが、オトウなら先回りして気付いてくれて当然と考えていそうだし、甘えたい気持ちを拒絶されないと信じるようになったのだろう。
 自信はいいが、「私だけ見て。気付いて」と、お姫さま気取りの気味がないとは言い切れない。お姫さま気取りは思い上がりの最たるものを意味するし、度を超す手前で妻がひいを叱るのは躾として正しい。でも群れの平和が乱されないかぎり、四六時中ではないのだからある程度は許してやりたいと思う。なぜかと言えば、ひいは女の子だから。ひいは犬の祖先の野生のオオカミのように相思相愛の夫を得ることはないので、たとえ別物であっても、女の子としての幸せの…

どうしてここに

なぜ、ここに犬がいるのだろう。と、ひいの姿を見て不思議な気持ちになるときがある。私と妻が望んでひいと暮らすようになったのだから家に犬がいてあたりまえなのだが、まったく違う生き物なのに人の暮らしにすっかり溶け込んでいる様子が妙だ。
 気がつくと家に見ず知らずの者がいて、その平然と暮らしている様子にひどく戸惑うが、事情を知らないのは私だけという事態が起こったら何を信じたらよいかわからず呆然となるだろう。まさに、こんな感じだ。
 ほんの一瞬だけ去来して何ごともなかったように消え去る気持ちと、日常のひいとの生活と、どちらが幻なのか考えるのはおかしいとわかっている。しかし、ふいに訪れる奇妙な感覚はあまりに生々しくて私をどきりとさせる。
 もちろん、ひいがいない生活は考えられない。
 いや、ひいがいなかったとき私はどのように暮らしていたかなかなか思い出せなくなっている。
 いったいどんな朝の目覚めだったのか、どんな一日の終わりだったのか。私と妻はどんな会話をしていたのか。記憶を遡ろうとしても、ずっとひいと一緒だったように思えてならない。いまの生活から、ひいを引き算した残りがかつての日々だったとするのも違うような気がする。私の思い出と感覚はつくり変えられ、元に戻れなくなっているようだ。
「なぜ、ここに犬がいるのだろう」と目の前に別世界が現れるとき、私は我に返っているのかもしれない。ひいがいるのはどこが起点かわからないずっと前からではなく、ひいがいる理由もはっきりした事情があってのことで、空気や水のように私に最初から用意されていたものではないのだ。
 犬を飼おうと言ったのは妻だ。
 それは自分が犬と暮らしたかったというより、すっきりしない日々を送っていた私を思っての提案だった。何かと言うと理由を付けて近所のお宅の門のそばにいるゴールデンレトリーバーに会いに行っていた私を見て、家に足りないものがあり、それが犬だと慮ったのだろう。こうして彼女は里親募集サイトを探し回って、ひいに一目惚れした。
 ひいはジグソーパズルの最後の一ピースだったのだ。
 これが、ひいが我が家にいる理由だ。私にとっても、妻にとっても、たぶんひいにとっても、群れというパズルは完成されなければならなかった。こんなことさえ忘れていた。
 のみならず、妻がいなかったときの生活の記憶が曖昧になっている。ともすると、ずっと一緒だったかのよう…

ももちゃんの話

ひいの散歩道となっている緑道は、強い夏の日差しが木々で遮られ、涼風まで吹いて、まるで林の中の小径のようだ。ところどころ枝分かれをしながら十五キロも続いているこの道を、朝夕は犬たちが飼い主とともに行き来する。ももちゃんは、そのなかの一匹だ。
 定年退職したとおぼしき飼い主のおじさんと散歩をしているももちゃんは、柴犬とポメラニアンの雑種らしい限りなく白に近いベージュ色をした小さな犬だ。体型と毛並みは柴犬、眼の丸みとマズルの短さはポメラニアンに近い。いつもおじさんのすこしだけ後ろをゆっくり歩き、ひいを見てはしゃくごとも威嚇することもなく、そばにきてもぼんやりたたずんでいる。
 初対面からだいぶ経って、ももちゃんはやっとひいの口元のにおいをかいだ。じれったいくらいゆっくり一歩一歩近づいてきて、二、三度鼻先を動かしたかと思うとおじさんの足下へ戻って行った。おっとりした性格なのは間違いないが、それ以上におじさんのことしか眼中にない様子だ。
 おじさんはももちゃんがかわいくてしかたないらしく、愛娘を見守る父親みたいに目尻が下がりっぱなしだ。そして、ひいに話しかける口調まで幼い子をあやすような言葉遣いになっていて、この様子から家でのももちゃんのかわいがられようが想像できる。
 私はももちゃんが飼われるようになったいきさつも、おじさんがどこの誰なのかも知らない。しかし、ももちゃんの性格は生まれつきもさることながら、ほかの犬たちがそうであるように、おじさんとの生活によって育まれたものが大きいと言えそうだ。心の拠り所を得、大切にされ、ももちゃんは満ち足りているのだ。
 ももちゃんとおじさんが緑道を遠ざかって行く。
 ひときわ柔らかな空気が後ろ姿を包んでいる。
 ひいよ、おまえは幸せか? ただ、それだけが気がかりだ。おまえの幸せは、私たちの群れの幸せなのだから。