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2月, 2012の投稿を表示しています

クロちゃんの話

 クロちゃんは小柄な黒猫で、クロちゃんという名前が正しいのかわからないが、そう呼ぶ人が多いし、呼べばニャーと応えるからたぶんそれでいいのだろう。ちなみにクロちゃんとみんなが声を掛けていると知る前は、私は勝手にタンゴと呼んでいた。中年以上しか知らないかもしれないが、黒猫のタンゴのタンゴである。  クロちゃんは我が家からちょっと離れたお宅をすみかにしているようで、この家とこの家の周辺で見掛ける。このお宅の玄関には犬のクレートが置いてあり、寒い季節は電気のコードが家の中から伸びているところを見ると猫用のホットカーペットが敷かれているみたいだが、クロちゃんがほんとうにこの家の飼い猫なのかよくわからない。というのも首輪をしていないのだ。でも餌はもらっているらしく、また家の人が帰ってくるのを待っている風情のときもある。  玄関先にあるクレートはゴールデンレトリーバーのアカネちゃんのものだと思うのだが、アカネちゃんがここに入っているのを見たことがない。アカネちゃんという名前も本名なのかわからず、そう呼んでいる小学生の女の子がいたというだけで、私はポンコと呼んでいた。ポンコという呼び名に深い意味はない。ポンコは昼間だけ外にいる人懐こい犬で、人間が通りかかると鉄の門扉に前脚をかけて立ち上がり、遊ぼうよと笑顔をつくった。私がポンコと遊んだだけでなく、犬嫌いでなければこのお宅の前を通りかかる人はみんなポンコを撫でていたのではないか。あるときポンコの背中にテニスボール大の腫瘍ができ、たちまち元気を失い、昨年の春ごろ姿が見えなくなった。クロちゃんはいつもポンコのそばにいて二匹はとても仲がよかった。  クロちゃんはポンコの様子を見て、人間は悪いものではないと知ったのかもしれない。人が通りかかるとニャーと鳴き、それはまるで「ねえねえ」と誘っているみたいだ。そのつど私はクロちゃんに「なんですか?」と近寄り、クロちゃんはしなやかな体をぐにゃりと甘えるように曲げるので頭や背中やお腹を撫でる。すると、ゴロっと喉を鳴らす。ずっと遊んでいたいのだが道端とあってはそうもいかず、「じゃあ、またね」と別れるのもポンコのときと同じだ。私は撫でたり話し掛けるところで留まっているが、このお宅の並びの家の人や、いつも見掛けるお婆さんはクロちゃんを抱きあげている。  でもポンコと違うのはツンデレなところで、ど

ごちそうの日

 煮込みをつくろうと牛すじのパックを開けるや、ひいがやってきて台所を覗き込む。鼻が効くひいが牛すじのにおいを嗅ぎつけたのもあるが、台所からおいしい何かが出てくることを知っているのだ。もちろんひいの取り分も考えて牛すじは買ってきてある。  牛すじはまず圧力鍋で柔らかく茹でるが、準備をしている間に一歩、一歩と近付いてきて、きちんとお座りしてこちらをじっと見詰めている。「あとでな」と言うと、納得がいかないのか、それとも「ちょうだい」とねだっているのか小首をかしげた。  牛すじと水を入れ、蓋を閉めた圧力鍋を火に掛ける。しばらくして圧力鍋のピンがあがり、かすかに牛肉が煮える匂いが漂いはじめるや、さっきよりもひいの眼の光が真剣さが増すのだった。あとは十分後にタイマーが鳴るのを待つだけなのでソファーに座ると、ひいは私のそばと台所を行ったり来たり落ち着かない。十分経って火を止め、そのまま圧力が下がるのを待つ。圧力が下がったのを見計らい鍋の蓋を開けると、濃厚な牛肉風味の湯気がもわっと上がる。たまらなくなったひいが、勢いよく飛びついてきて立ち上がった。もしひいの身長が人間の子供くらいあったら、鍋を覗き込んでいただろう。  熱々の牛すじを一口大に切りつつ、ひいの取り分を小皿に分けていく。これから人間の取り分は大根を入れ味付けをするので、ひいの分はテーブルの上に載せておく。ひいはテーブルの下を小走りに回り、小皿を置いた場所がわかるとそこをじっと見詰めた。だめだめ、まだだ。手で触れないくらい熱いからトングで掴んで切ったくらいだ。  この日の人間の夕食のあと、ひいに牛すじをやった。このときを待ちわびていたひいは、脇目もふらず旨そうに食べている。食べ終えたひいは、「まだあるんでしょ?」とでも言いたげに、じっと私のほうを見た。いっぺんに食べたら食べ過ぎだ。残りは明日だ。  翌日は人間がおやつにしようとサツマイモを蒸かした。蒸籠からサツマイモの匂いが甘く拡がると、ひいは台所が気になってしかたなくなる。こちらもひいの取り分を、ほどよく冷めたところでやった。サツマイモもひいの大好物で、食べさせる前にお座りを命じるとキレのよい素早い動きで座り微動だにしない。食べ終えて「もっとちょうだい」とねだってくる。いっぺんに食べたら食べ過ぎだ。今日は取っておいた牛すじも食べたんだぞ。残りは明日だ。

食べればウンチとオシッコ

 ひいはペットシーツでオシッコをするように育ての親のAさんに躾けられて我が家にやってきた。つまり家の中のしかるべき場所で小便をすませられるはずだったのだが、ある日、突然これを拒否してドアの外でなければオシッコをしないようになった。玄関の上がりかまちには念のため脱走防止のネットが張られ、こればかりかドアを開けることもひいはできない。したがって、私や妻に「オシッコ行きたい」と要求して外に出るのだ。  想像にすぎないが、巣の中でオシッコが許されるのは赤ちゃんまでで、もう自分は大人だから巣は清潔にしたいという欲求なのではないのか。ドアの外の敷地内は巣とは別の場所だと考えているらしい。ちなみにウンチについては我が家にきたときから外派だった。  ひいがオシッコをしたいとき、私や妻の手が空いているとは限らない。気候がおだやかな季節ばかりでなく猛暑の夏や寒風吹きすさぶ夜もある。それでも切羽詰まった様子で「オシッコ行きたい」と要求する。粗相をすることがなくなったとはいえ、小便を我慢するのはつらかろうとひいを玄関の外へ出してやらざるを得ない。ペットシーツですましていた頃は汚れたシーツを捨てるだけで実に楽だったのに、正直なところ面倒だ。  数日前の大雨の日も、とうぜんひいはオシッコをしたがった。ひいはドアの外のもの凄い雨にたじろぎ動かない。「じゃあしないのね」とドアを閉めて部屋に入れても、やっぱりオシッコをしたいとひいは落ち着かず「オシッコ行く」とまた要求する。こんなことを繰り返し、私は軒下から出てずぶ濡れになりながら「こっちこい。チッチしろ」とひいを呼んで、やっとのことで小便終了。一騒動だった。  でも、食べて、飲んで、生きていればウンチとオシッコをしないわけにはいかない。だからオシッコの要求に応えてドアを開けてやり、散歩でウンチをさせる。もちろん散歩道でしたウンチは拾って家に持ち帰る。ウンチは汚いし臭い。風邪をひいていても、人間の都合で時間がなくても、これだけは飼い主としてやらなければならない。四六時中トイレを使う自分たちのことを棚に上げて、ひいのウンチとオシッコを責めるわけにはいかないではないか。ウンチやオシッコをしているときのひいの申し訳なさそうでいて緊張しているような情けない顔と、終わったあとのほっとした様子は私のそれと同じだ。  ロボット犬のアイボが早々に廃れたのは、実は

犬と人の心

 犬を擬人化するのは好まないけれど、犬に心があることは間違いないと思う。なぜ擬人化することを好まないかと言えば、犬の心はたぶん人の心とまったく同じではないと、これまで飼ってきた犬たちを見て感じるからだ。擬人化とは、人の勝手な思い込みで相手が自分と同じような気持ちのありようをしていると、相手に自分を重ねることだ。たとえば、花の枝を折って「痛いでしょう」と言い、花が枯れるさまを見て「苦しいでしょう」と言うことだが、これは人の心の動きとして否定されるようなものではないし、人間らしいところでもあるのは事実だ。しかし、犬との付き合いはそれだけでは何かが不足していて、何かが違うように思われる。  人が洞窟生活をするような原始の時代から、傍らには犬がいた。  オオカミの子供をかわいいという理由で人間が連れてきたとも、オオカミが人間の食べ物のゴミを期待して寄ってきたとも言われている。オオカミは人に慣れないけれど、最近の研究ではすこしでも人懐こい個体同士を掛け合わせるとすぐ人に慣れる動物に変わることがわかっている。こうして犬は誕生し、ゴミ掃除屋としてだけでなく、狩りの友になった。頭ばかり大きいくせにか弱い人間に、犬は敵が近くにいることを教えた。狩りは格段と効率的になり、暮らしは安全になり、原始的な人間が人として新たな高みに進む助けとなった。犬と人は、まったく種が違うけれど切っても切れない関係にあるのだ。  なぜ関係ないもの同士が、狩りの友、暮らしの友になったのだろう。  それは互いに餌を得る上で効率的だったからに違いないが、獲物を分け与えあうことができたから友であり、ただ単に高率一辺倒な理由だけではなかったのではないか。ここに犬と人の原初的な心のやりとりを見る思いがする。犬は道具の存在だけではなかった。人の家族、人の群れの一員になったのだ。獲物を互いに分けあったとき、それはいまの私たちが好意を抱いている人同士で食事をする楽しみや、食事をいっしょにすることで絆を深めるのと同じ気持ちが働いていたことだろう。ここに心の交流がある。我が家の床を走り回っているロボット掃除機ルンバとは違う。  ひいと私たち夫婦がひとつの小さな群れとして暮らせるのも、心の接点があるからだ。  ひいは餌だけのために私たちに甘えているのではない。私に何かあると心配を共有しようと態度が変わり、平和なひととき