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私、気になります(その1)

 誰かが千葉県富里の動物愛護センターに持ち込んだ乳飲み仔四頭のうちの一匹がひいだから、本当の誕生日はわからない。ただし、逆算すると十月のはじめ辺りに生まれたようで、こうなると天秤座生まれであるのは間違いなさそうだし、私の誕生日と同じ十月二日を誕生日とすることにした。  今年の誕生祝いは、温泉卵を餌に入れてあげること、そして首輪を新調することと決めていた。しかし、目をつけていたてんとう虫の刺繍のチロリアンテープを使った首輪は売り切れで注文製作になり、昨日、やっと手にすることができた。  家に戻ってペットショップの袋から、ついでに買ったおやつと新しい首輪を取り出すと、いつもならおやつに興味津々なひいが食べ物には見向きもせず、(気になります!)とまっすぐ首輪に向かって行った。  さらにてんとう虫の刺繍の首輪をつけると、モデルよろしく私と妻に見せびらかすように歩いた。私がこの場を離れると、自室まで追いかけてきて飛びつき、(もっと見て! 新しいの見て!)と居間に呼び戻らされた。私たちのうれしさが自分の首輪にこもっているのがわかるのか、それとも自分だけのものをもらった喜びなのか、とにかくひいはてんとう虫の刺繍の首輪の意味を理解しているらしい。  仔犬はたしかにかわいい。でも、人と暮らし続け気持ちを互いに解りあえるようになったそれなりの歳の犬は、さらにかわいいものだ。    

愛されてばかりいると星になるよ

 本日のひいの写真はウォン・カーウァイ監督作などで撮影監督をしてるクリストファー・ドイル調にしてみた。カーウァイの『花様年華』をイメージしたつもりだけれど、嗚呼、なんか違うな。なぜこんな真似をしたくなかったかと言えば、ウォン・カーウァイの作品に通底する愛について思いをめぐらしていたからである。  人が心に抱く愛の念と、犬の話がいかに関係しているのか。それは、ひいが特殊な暮らしをしている犬であることから説明しなければならないだろう。  人間のオトウとオカアと一日中過ごし、もちろん眠るときも一緒。いつも互いがそばに居ると限らないが、ひいの本拠地というか巣はベッドで、そのベッドは私の部屋と天井まで届く本棚で区切られた部屋にあるから、つねに気配が伝わっていることだろう。  女の仔のひいが、こうして暮らし続けた結果どうなったか。  妻と話し込んでいるとき、ひいは急に私に飛びついて歓心を引こうとする。何か要求があるのか、その状況で考え得る行動に移すが彼女は満足しない。度々このようなことがあって、単にオトウを振り向かせたいためだけにやっているとわかった。  妻が肩こりで悩んでいるときマッサージをすると、ひいは私たちから目を逸らす。必ず、そうする。ちょっといじけた雰囲気を漂わせているので、妻への肩たたきを終えたあと、ひいを念入りに撫でてやらなければならない気持ちになる。  我が家でのひいのポジションは、永遠の赤ん坊である。何らかの責任や使命を押し付けられることなく、かわいがられ守られ続ける群れの一員だ。使命はない代わりに私と妻の心のオアシスで、家族と愛し合いふれあいたい願望を受け止めてくれる係である。  だが、ひい自身は赤ん坊と大人の女の間で揺れ動いている。  オトウとオカアが男女つまり雄と雌であるのをひいが知っていることは何度も書いてきた。そこに、自分と人間は何か違うものらしいけれど、まったく違うものでなく、むしろ犬型をした他のものたちより人間に近い存在という感覚が加わっているみたいだ。もしかしたら、人間とはなんとなくかたちが違うだけと思っているのかもしれない。  群れのメンバーと愛し合いふれあいたい願望は、ひいも変わらない。ただし、そこに別の愛を求める気持ちが芽生えているようにも思える。考え過ぎだろうか。  もっと愛をちょうだい。その愛とは別の愛がほしい。もし人間の女性な...

病院の先生にきれいな顔と言われました

 きれいな顔の意味が、シャンプー後のきれいさでも、美貌の意味でも、たとえお世辞でもオトウはうれしいのです。

ボツにしたカット

 ひいを迎える日の直前に買ったカメラの具合が怪しくなりかけていて、これはメーカーが悪いのではなく、あきらかにシャッターを押した回数が関係している。銀塩写真の時代は、カメラバッグの中に未撮影のフィルムがあと何本だろうか常に考え、頭のけっこう真ん中に「¥マーク」が漂い続けていた。これがデジタルになると、たがが外れる。  こうして、膨大な量となったひいの写真がハードディスクに溜まって行く。もちろん、ブログに載せない、プリントもしない写真が山のようにあって、ここにピントや構図は申し分ないものがけっこうな枚数になっている。なぜ仕舞い込まれたままの写真が多いかというと、ひいが人間の女の子だったらこの表情は残したくないだろうと思うものを、タレントのマネジャーがやっているようにボツにしているからだ。たとえば、この日記の冒頭のような面持ちのカットはボツにしてきた。 「ひいのだらしないときが、かわいいのに」  と妻は言う。  私もそう思う。そして、だらしなかったり、中途半端な表情のカットも撮影はしている。  きっと、冒頭に掲げた写真をどうしてボツにしたか理解しかねる人もいるだろう。私は写真を選びながら、この瞬間は私の中のひいではないと判断したのだ。だから、「ひいが人間の女の子だったら」という理由はエゴに対する言い訳かもしれない。しかし、人間のポートレートを大量に撮っていたときも、私の中のその人を現そうとしてきた。ここが私の撮影者としての限界なのだ。  コンプレックスは数限りなくあるが、絵を描けないことは私にとってかなり大きな心の棘(とげ)となっている。小学生のとき画用紙いっぱいにどーんと写生して先生に褒められたことはあったが、いつまでたっても兄のようにマンガの主人公をそっくりに模写できなかった。そして、自分が描く線が美しくないのを知っていた。線の美しさは、天性のものだ。でも、平たい紙の上にどうしても描きたい。写真なら、自分の思いを形にできるだろうとカメラを手にとった。  もし可能なら、抽象ではなく具象画、油ではなく日本画の線でひいの姿を描きたい。画風や世界観の好き嫌いといった感情を越えたところで、池永康晟氏(http://ikenaga-yasunari.com/)のような線でひいを描きたい。一枚を完成させるために、一年、二年と費やしてもよいと思う。  それとは別に、感じてやまな...

2012年Aさんチームの同窓会

  ここ数週間、ひいは落ち着かなかった。何かといえばオトウの車のにおいをかぎ、ドアを開ければ急いで乗り込もうとする。これは、Aさんが保護し里親のもとで幸せに暮らしている犬たちの同窓会の日取りが決まったあたりからのことで、オトウとオカアがせわしく準備をしていたわけでもないのに、ひいは何かを察知したのだ。ひいが人間の言葉をかなり理解できるのではないか、と信じる根拠のひとつである。  明日は同窓会という金曜の夜、ひいの車への関心は最高潮に達し、部屋にいてもそわそわしていた。私をじっと見つめ、しきりに飛びついてくる。「さあ、行こうよ。すぐ、行こうよ」といった具合でうるさいので、てるてる坊主をつくってやり「明日だよ。明日、晴れるといいね」と諭した。窓辺に吊るされたてるてる坊主を、ひいはじっと見つめ動かなくなった。  土曜日の朝、いざ出発。東名高速道路から首都高を抜け京葉道路で千葉へ向かう。幕張パーキングエリアでトイレ休憩。ひいはこれから始まるものへ距離を縮めたことを実感しているのか、駐車した車の中から千葉県に降り注ぐ太陽の光を見つめる。ここまでくると、私もあと一息と実感する。渋滞しているようだが、大きく遅刻する可能性はないとカーナビが教えてくれている。さあ、どんどん進もう。  すいらんグリーンパークに到着すると肌寒い曇り空だったが、ひいはぴょんと車から飛び降りた。そしてなんと駐車場でAさん一家の車を発見し、しがみつくようにしてにおいをかいだ。いとおしみ、なつかしみ、大好きなAさんご夫妻がここにいると確信したらしい。  貸し切りにした広いドッグランで、ひいは昔の仲間とご挨拶。新しい顔ぶれにも恐る恐るご挨拶。私と妻は飼い主のみなさんと世間話を楽しみ、ひいはがむしゃらに走り回り、Aさんご夫妻に「ひいです! ひいです! 会いたかったです!」と飛びつく。  毎度のことながら、里親家の群れにひとつの個性があり、一匹として同じ犬がいないのが楽しい。別々の群れで安定した日々を送ってる犬たちが、これをよくわかった上で仲間である人と犬と遊びに興じている。やはり、同窓会はひいたちにとって特別な日なのだ。  持ち寄った料理で昼食を食べていると雨が降り出した。ぽつんと頬に落ちる雨粒が、やがて豪雨に。予定より...

専属モデル

   ひいは知らないことだけれど、オトウは昔、写真を撮ってわずかばかりお金をもらっていた。それでゆくゆくは、小さなスタジオがある事務所を構えて、アシスタントを雇えればいいなと考えていた。だから売り込みのために、あちこちの雑誌社を訪ね歩いたりもした。世界的な写真家ばかりが仕事をしている雑誌の編集部に乗り込んで行ったなんて、思い出すだけでどっと冷や汗が出る。  その頃、知り合った年上のやはり写真を撮っていた人は、オトウと違って人を撮ることを仕事にするのではなく、モノを撮る専門家になろうとしていた。いまこの人はどうしているだろうと、ときどき思う。やはりモノを撮り続けているのだろうか。  なんだかいろいろあって、オトウは機材を売り払い写真をほとんど撮らなくなって、いまのオトウになって行ったのだが、あのとき小さなスタジオがある事務所を構えていたらどうなっていたか想像もつかない。いずれにしろ、毎日無数にシャッターを切っていた日から二十余年過ぎた。  またいっぱい写真を撮ろうと思うようになったのは、ひいがやってくると決まったときだ。これは、どんな人でも子供が産まれるとカメラを買おうと思うのと同じ気持ちだったろう。それでいくらなんでもフィルムの時代ではないからとデジタルにしたのだけれど、分相応はこれくらいとカメラはほどほどのものにした。  こうして、ひいはオトウの専属モデルになった。 「ひいは美人さんだ」と褒めると、オカアはひいに「そんなことどうでもいいよね。普通よね」と言う。  たしかに、普通だろうな。  でも、モノを撮る専門家になろうとしていた人は言っていた。同じオーブントースターを撮っても愛があるかないかで別物になる、と。  念力の話ではない。どの方向から光を当てて陰影をつくるか案配し、わずかな光の角度にもわずかな光量の調整にも心を砕く。ひとことで光と言うけれど、柔らかな光から鋭い光まで無限に幅がある。こんなことは愛がなかったらやっていられないし、オーブントースターのいちばん美しい姿を見つけられるのも愛あればこそ。  ひいに美人さんが潜んでいる。隠れていた美人さんが現れたのを見逃さずシャッターを切るのが私は好きだ。かたちあるものとして定着させることに心が躍る。そういうことなのだ。  今日もひいの中に美人さんがいた。どこかへ行ってしまう前にシャッターを切った。...