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9月, 2013の投稿を表示しています

てへぺろと犬は笑う

 居間に行ったひいが一匹だけで何をしているのか好奇心をそそられた。  カメラを持って足音を忍ばせドアの陰から居間にレンズを向けると、ひいは電源が入っていないテレビのほうを見てぼうっとしていた。レンズの視線に注視されている気配に気付いたのか、こちらを振り返ったひいは驚きと恥ずかしさを誤摩化すようにてへぺろっと笑った。  野生のオオカミは笑わない。そもそも顔の筋肉の発達のしかたが人間と違うのだから笑顔をつくれないと言うべきか。しかし、犬は笑う。顔のつくりのせいか柴犬はしょっちゅう笑っているように見える。犬は人間と数万年も一緒に暮らしてきたため、笑顔をつくれるはずのない筋肉で笑顔を真似るようになったとされている。群れで生きる動物にとって感情表現は重要だから、筋肉や骨格の違いを超えて笑い顔を習得したのだろう。  ひいは顔の幅が狭くマズルが長くて、眼は丸っこいアーモンド型なので、柴犬のように口角がきゅっと上がり眼を細めた満面の笑みにはならない。それでも私や妻には、日頃の表情との違いがはっきりわかる。 「なに笑ってんだよ」  と訊きたくなるときがある。  まあ哀しい表情をされるより、よっぽどうれしいのではあるが。  ところで、笑えるはずのない表情筋を使って笑う犬を、人間はかわいいと喜ぶだけでよいのだろうか。遺伝子的に野生のオオカミの変種にすぎないが、犬の心は人間にとても近づいているのだろう。そしていまでも、人間により近づこうとしているに違いない。表情や行動を取り入れ、言葉の意味もかなり憶えている。そんなに野生から遠のいて、いいのかい。  人間て、君たちにとって真似したくなるほどいいものなのかい。  オトウは人間であることに疲れたから、ひいよりちょっと大きめの犬になって、おまえとゆったり暮らしたいと思っているのだが。

オトウがいない

 台風一過の晴れ渡った日の午後、私は思い立って洗車に出かけた。  近場のガソリンスタンドにセルフ洗車機があり、お金を入れていろいろな洗いかたやコーティング剤をかけるかどうかまで選べる。手洗い洗車より格段に安いし、やることといったらクルマを洗車機が指定した位置まで進め、水流とブラシに包み込まれるのを車内で待つだけだから、多少の出費はあっても自宅で洗うよりそうとう簡単だ。しかも、自分で洗車するより仕上がりがよい。  猛威をふるった颱風で汚れたクルマが多かったとみえ、セルフ洗車機を使おうとする人が多かった。しかも直前のお客である初老の女性が機械の使い方がわからないらしく、店員を呼んできても説明がなかなかのみ込めず、あっという間に予定していた帰宅時刻よりだいぶ遅れた。  帰ってきた私をひいが歓迎の舞で迎えてくれるのはいつものことだが、自室の机に向かうとぴったりそばを離れないばかりか、くぅくぅと切ない声をあげた。おしっこを外でしたいと懇願されているのかと思い玄関のドアを開けてやっても内と外をいったりきたりで態度がはっきりしない。  もしかして、あれか。 「いつものネンネしたいの? オトウとネンネ?」  ひいは(その通り)とぶるっと身震いした。そして書架で仕切られた寝室のほうを向いてこちらを振り返る。午睡する気分ではないがベッドに横たわると、ひいは飛び乗ってきて体をぴったり合わせるやぱたんと寝転んだ。私が昼食のあと一休みする習慣を知っていて、この憩いのときを共にするのがひいにとって重要なのだ。  数日後、私は朝早くから出かける用事があり家を昼頃まで空けた。  この日の喜びの舞は異常なくらいだった。妻によれば、これまでなら寝室のベッドや妻の自室で横たわって私の帰りを待っているのに、家中をうろうろ、玄関の前に行ってみたり、一階と二階を行き来してみたりだったそうだ。あまりに落ち着きがなく不安そうであったため、妻はひいをケージに入れて冷静さを取り戻させようとまでした。ここにオトウが帰ってきたわけだ。  いつにない動揺ぶりは、たぶん洗車した日の影響ではないか。  ひいは私や妻、私と妻の外出の様々なパターンを知っている。例えばケージに入れられ、私と妻が共にクルマで出かければ数時間以内に帰ってくるなど。ところが私だけがクルマで出かけた場合は時間が読めない。さらにクル

美人の条件

 美人について考える。美しい人の条件であるから男女を問わない。おやおや、この前提に違和感を覚えますか。私は闘うフェミニストではないから、なんでもかんでも男と女は同じと考えていない。「美人」という言葉に性の違いを含む語が含まれていないから、単純に男女問わずとしてみただけだ。  顔貌を美人の条件として第一に挙げるのは間違いではないが、これだけに限って美人を語るのは美人を卑しめることにならないだろうかと思っている。さらに時代とともに美人とされる顔の基準は明らかに変わる。高松塚古墳に描かれていた麗人の像は、当時の美人。引目鉤鼻は、平安から鎌倉時代の理想像。武人像も同様。浮世絵の美人画や役者絵ももまた、眉目秀麗に現実を誇張したもので、いまだったら萌え絵に喩えられるだろう。だかしかし、このような昔の人が街を歩いていても現代人は美人とは呼ばないだろう。顔の評価は流行に左右される。  したがって現代の美人さんは、生まれてくる時代がよかった運のよい人である。江戸後期から明治時代に撮影された芸妓や役者の古写真を観ると、かなり現代人の美人の基準に近づいているか一致している。とはいえファニーフェイスの美人というものはかなり最近の流行りで、しかもファニーさの基準はころころ変わる。  人を見た目で判断したらだめですよと言われるけれど、いっこうに改善されないところをみると、顔は大切なもので、第一印象は顔くらいしか判断材料がないのである。いやいや優しさのオーラが出てます、という言うもいるだろう。でもオーラって何? 初対面が素っ裸なんてほぼあり得ないのだから、オーラが存在するなら顔貌から滲み出しているのではないか。  顔貌を美人の条件として第一に挙げ、これに限って美人と判定することが当人を卑しめることになるのは、単に流行の顔か否かという問題だけでなく、優しさのオーラとか強さのオーラとかの発信地について考慮されていないからだ。美人だけれど卑しさを感じる人もいるではないか。果たして、このような人物を美人としてよいのだろうかという疑問がある。  なぜなら仕事柄、テレビなどに出てくる世の中から美人と呼ばれる人と面と向かう機会が多数あったが、この人たちが大っぴらに見せているものは演じられた上の性格であり、オーラの切り替えができる人たちだからタレントなのであって、素がなかなか意地悪な人とも数多く接してきた

もふもふの功罪

   犬から怖い思いをさせられたことがあったり、動物は不潔だと感じていたりと、犬嫌いにもいろいろある。妻だって、道ばたで出くわした犬の吠え声に怯え、知り合いの飼い犬にもこわごわ手を差し伸べていたという。ところがひいと暮らし、犬とはどのようなものか知るに至り、もふもふした被毛を撫でるのが最上の喜びとなった。  と書いてふと思ったのだが、もふもふという言葉は皆に通じるものなのだろうか。もふもふとは、動物のふわふわした毛の様子や手触り感、さらにはその動物がいる快適さやかわいさまで言い表すため数年前から使われるようになったもので、同じようにふかもふも使われる。しばしば、動物そのものをもふもふ、ふかもふとも呼ぶ。これで「もふもふ」を説明できたと思うので、ここからは特に意識せずこの言葉を使って行く。  ところで、「犬は不潔派」の人々はたぶん終生、犬嫌いのままなのではないか。  最近は盲導犬が電車に乗っている姿をしばしば見かける。訓練のたまもので大人しいうえに、被毛が落ちないよう服を着ている。それでも、やっかいなものが乗ってるとばかりに目つきが変わる人がいる。新聞社がやっている猛々しくやかましいことで有名な人生相談掲示板で、誰かが荒れることを目的に書いたいたずらだとしても、犬のいる家の人がパーティーにもってくる食べ物は汚そうで勘弁してほしいとか、犬のいる家に呼ばれて食事なんてできないなどという話題が登場し、批判者がいる一方で賛同の声が集まる。  本日の写真は、今夏、アンダーコートを梳くファーミネーターを使って取れたひいの毛だ。ぎゅっと固めてなければ、かさがもっとある。これがもふもふの元であるわけで、大して羊毛と違いはないし、なによりひいのものだから私と妻はもっと溜め込んでフェルトをつくろうとしているが、「犬は不潔派」の人々には気が狂ってるとしか思えないだろう。いくらシャンプーで洗浄後にフェルトにすると言っても嫌悪感は拭えないはずだ。私も妻も、このような人々の気持ちを察し否定する気はないので、こうして写真でしかお見せできないのである。  ひいのもふもふは私たちにとっては功ばかり、嫌いな人にとっては罪ばかりな訳だ。  いやいや私たちにとって罪の部分もある。ひいを撫でたり、ぴったり身を寄せているともふもふのせいで時が経つのを忘れ、やらなければならないことを忘れてしまう。眠くな

怖いもの知らずだったのは昔のこと

 せっかちなのは生まれつきだが、20代いっぱいまで怖いもの知らずで思慮が浅さく軽挙妄動が常だった自らに今になって赤面する。軽挙妄動の癖は治らなかったが、世の中、怖いものばかりとなった。人が怖い、もっとも怖い。お金が怖い。死が怖い。幸せなときはいつか必ず終わる、と怖い。  犬たちは雷を怖がると言われるが、これまでひいはどんな雷雨も恐れなかった。過日、颱風が衰え生じた熱帯低気圧によって日本中が荒らしまくられたとき、我が家の周囲もまるで機銃掃射を受けたみたいな雷と雨に見舞われた。この日、はじめてひいは雷鳴に怯えた。いつもならベッドで寝転がっているところなのに、私の足下、机の下に入り込み身を縮めていた。  犬の先祖であるオオカミは斜面などに穴を掘って巣穴としていた。雷は雨の先触れであり、豪雨となれば土が崩れ生き埋めになる者もいたことであろう。体が濡れて冷えれば、病や死に結びつく。かつて飼っていた白い雑種犬のダーリンは、正月がくるからと風呂で洗ったら、よく乾かしたつもりだったが冷えが体力を一気に奪い寝たきりとなり、死のきっかけとなった。犬が雷や雨を嫌うのは、本能に刻まれた過去の記憶が呼び起こされるからなのだろう。  そう言えば311の日から、ひいは地震を怖れるようになった。スマートフォンが知らせるだけで体には感じられないほどの揺れであっても、なぜか感知することができる。さらに、遠いところで起こるP波と呼ばれる初期微動がわかるのか、大きく揺れる前に警戒の声を「ワン」と上げ、地震が嫌いなオカアのもとへ駆けて行く。オカアはひいを抱きしめ、ひいは怯えた目をして揺れが収まるのを待つ。あの春先の震災の揺れと、その後に起こった群れの中の混乱を忘れられないようだ。  こうして、ひいの怖いものが増えて行くのかもしれない。  これは同時に、いろいろなものごとを覚えたことになるのだろう。五歳を過ぎて、年齢換算はあてにならないとはいえ、少なくとも青春の時期は終わりを迎え自らの弱さを知るに至ったのかもしれない。私と同じように。  本日、夕刻から雷雨。  雨は収まってきたが、遠雷が轟く。  ひいは机の下。私は椅子の脚の車輪でひいを轢かないようにしている。どこかへ行こうとすればついてきて、(机の下のほうが怖くないのに)という眼をするので部屋からは出ない。  小学二年生まで私は死なんて考えたこともなか

愛されてばかりいると星になるよ

 本日のひいの写真はウォン・カーウァイ監督作などで撮影監督をしてるクリストファー・ドイル調にしてみた。カーウァイの『花様年華』をイメージしたつもりだけれど、嗚呼、なんか違うな。なぜこんな真似をしたくなかったかと言えば、ウォン・カーウァイの作品に通底する愛について思いをめぐらしていたからである。  人が心に抱く愛の念と、犬の話がいかに関係しているのか。それは、ひいが特殊な暮らしをしている犬であることから説明しなければならないだろう。  人間のオトウとオカアと一日中過ごし、もちろん眠るときも一緒。いつも互いがそばに居ると限らないが、ひいの本拠地というか巣はベッドで、そのベッドは私の部屋と天井まで届く本棚で区切られた部屋にあるから、つねに気配が伝わっていることだろう。  女の仔のひいが、こうして暮らし続けた結果どうなったか。  妻と話し込んでいるとき、ひいは急に私に飛びついて歓心を引こうとする。何か要求があるのか、その状況で考え得る行動に移すが彼女は満足しない。度々このようなことがあって、単にオトウを振り向かせたいためだけにやっているとわかった。  妻が肩こりで悩んでいるときマッサージをすると、ひいは私たちから目を逸らす。必ず、そうする。ちょっといじけた雰囲気を漂わせているので、妻への肩たたきを終えたあと、ひいを念入りに撫でてやらなければならない気持ちになる。  我が家でのひいのポジションは、永遠の赤ん坊である。何らかの責任や使命を押し付けられることなく、かわいがられ守られ続ける群れの一員だ。使命はない代わりに私と妻の心のオアシスで、家族と愛し合いふれあいたい願望を受け止めてくれる係である。  だが、ひい自身は赤ん坊と大人の女の間で揺れ動いている。  オトウとオカアが男女つまり雄と雌であるのをひいが知っていることは何度も書いてきた。そこに、自分と人間は何か違うものらしいけれど、まったく違うものでなく、むしろ犬型をした他のものたちより人間に近い存在という感覚が加わっているみたいだ。もしかしたら、人間とはなんとなくかたちが違うだけと思っているのかもしれない。  群れのメンバーと愛し合いふれあいたい願望は、ひいも変わらない。ただし、そこに別の愛を求める気持ちが芽生えているようにも思える。考え過ぎだろうか。  もっと愛をちょうだい。その愛とは別の愛がほしい。もし人間の女性な

私の心はお見通し

 Little Feat というアメリカのバンドがあり、私はアルバムを揃えるほど好きなのだが、昨日までなぜ Little Feat のファンになったか忘れていた。どうして昨日、思い出したかといえば、矢野顕子のファーストアルバム「JAPANESE GIRL」を iTunes Store で買いなおしたからだ。一曲目から再生。絶妙としか表現しようがない伴奏だけでも堪能できる音とノリは Little Feat にしかなし得ないものだった。LPレコードで発売された当時「JAPANESE GIRL」のA面はアメリカンサイドとされバッキングは Little Feat が担当していて、ジャケットかライナーノーツに印刷されていたスタッフの名前から Little Feat を知ったのだ。なるほど、そうだったか。  ちなみに Little Feat の面々は小遣い稼ぎのつもりで日本からきた若い女の子の伴奏をするつもりだったらしい。ところがセッションがはじまるや矢野顕子の才能に打ちのめされ、自分たちのオリジナルアルバムを録音するほどの気力を振り絞り、すさまじい演奏で立ち向かった。だから、私は伴奏者が何者か気になったわけだ。ところがリーダーで名ギタリストの故ローウェル・ジョージは「申し訳ない、僕らは彼女の才能をフォローしきれなかった。ギャラはいらない」とプロデューサーに泣いて謝ったのだった。  話の本筋より長くなりそうなので Little Feat についてはここまでにする。 「JAPANESE GIRL」のA面二曲目は「クマ」というタイトルで、矢野顕子が飼っていた犬の名が題名となっていて、死んだこの犬のことを〈かわいい、おまえにゃ嘘はつけないわ。私の心はお見通し。〉と歌っている。  ひいもそうだよな、と思う。  過日、私が眠っている間中ずっとひいが体を押し付けてきていた。適度なら嬉しいことだけど、密着しようとするあまりぐいぐい体重を掛けてくるので私はベッドから落ちそうになる。だからといって、ひいを力任せに跳ね返せば彼女の心は傷つくのではないかと感じ熟睡できなかった。度を超したとき、私はベッドで眠るのをあきらめ居間に移ってソファーに横たわった。すると、ひいがやってきた。 「ここで寝るですか。ベッドで寝ないですか」  と問いかけてくる目をした。  おまえが邪魔で眠れない