古い日記という呼び方にはすこし抵抗があるけれど、2011年までの日記で一区切りをつけて「犬と生きる、ひかりと暮らす。」は当ブログに移行させた。
幼犬ひいが我が家にやってきて家族になった日々は珍しいことや戸惑いなどがあって賑やかなものだったが、ひいは四歳になり我が家は落ち着いて、別の言いかたをするなら平凡きわまりない日々となって、そんなこんなの理由で日記に区切りをつけようと思ったのは昨年の中頃過ぎだった。それならもっと早く新しい日記をはじめられそうなものだが、私はなんだかぐったりして疲れて「新しい」ことを怯えるようになっていた。
四十代は大人のはずでちょっとくらいのトラブルなら平気になっていてとうぜんなのだろうけれど、騙されたという表現は大袈裟としても他人に都合よく使われそうになって、自分が自分を思っているより軽く見られるているのだなと実感させられたのはつらかった。大きな颱風がきて大切にしていた庭のザクロの大木が倒れたというだけで、つらさは雪玉が転がって膨れるように大きくなり、こうなると見るもの聞くものが眼に肌に心に突き刺さるように感じられた。
エアコンの調子が悪い。自転車がパンクして錆び付いている。大切なiPodが壊れた。つまらないことと言われそうだが、こういったものが連続して立て続けに朽ちて行くことがたまらなかった。目の前が薄暗く感じられた。つまり私は弱気の弱虫になっていたのだ。
今朝、いつものようにひいを散歩させていると路上に一枚のチラシが落ちていた。
細かい本文の文字は見えなかったけれど、「妻を大切に」と見出しにあった。
それはたぶん宗教の勧誘を目的にしたチラシなのだろうが、そんな意図とは別の思いが私の心を捉えた。弱気の弱虫は、妻をつらい気持ちにしてないか。妻がいて、私が生きていられることを感謝しなくてはならなのではないか。言葉にすると安っぽいが、しばらくその場を立ち去れないくらい私は反省した。だから日記を新しくした、というのでは因果関係が説明しきれていないけれど、これはこれで私にとって重要なことだったのだ。
大切にしなければならないのは妻だけか。
弱気の弱虫の私に、ひいは愛想をつかすことがなかった。むしろ、私に頼っている。
いつだって私の眼をじっと見詰めてくれる。私の傍らに寄り添ってくれる。「とっても、とっても、お願い、お願いがあるの」と飛びついてくる。夜眠るときは、私の布団に入ってぴったりくっつく。
私がいなかったらひいが悲しくなるというのは思い上がりではないだろう。
ひいがいなかったら私が悲しくなるのははっきりしている。
私は大きな勘違いをしていた。たしかにひいがきたばかりのような珍しいことや戸惑いはなくなったかもしれないが、平凡きわまりない日々は退屈なだけの倦んだ日々ではなかったのだ。私と妻とひいがいっしょに生きていることが深まっている日々だったのだ。
犬は一匹では生きていけない。家から放り出されたら行く末は眼に見えている。それと同じように、私は一人では生きて行けない。これは、たとえ話をしているわけではない。妻がいてくれるのと同じように、ひいがいてくれて私がいる。
こうして、この新しい日記ははじまる。
よかった・・・本当によかった。心待ちにしていた再開です。
返信削除旧日記を読んでくださっていたこと、心から感謝いたします。ありがとうございました。私事でしばらく中断していたこと、申し訳ありませんでした。
削除はまぐりさんのコメントはとても励みになります。
拙い日記ですが、これからも何卒よろしくお願い申し上げます。
そして、これからもひいのことを見持ってあげてください。