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世界でいちばんお姫さま


 ひいは四年前の春に我が家にやってきた。このとき生後六ヶ月だった。すぐ新しい暮らしに馴染んだように見えたが、一週間ほどするとペットシーツ以外の場所でわざと小便をしはじめた。たとえば私と妻が会話をしていて相手にされなかったり、望んでいることを理解されなかった場合に拗ねていたのだ。だが、こんないじけた態度はやがて消えた。甘えたい気持ちを、どのように表したらよいか悟ったのだろう。
 では甘えかたが巧妙になったかというとそうではなく、遠慮しなくてもよいと気付いたらしい。これには、ひいが望んでいることを私が容易に察してやれるようになったのも関係しているようだ。ひいはこちらを見つめ、希望を心に念じる。すると瞳が雄弁に語りだす。私はこの望みをかなえてやる。それならどんなときも率直に甘えればよいとなる。
 これは頼みごとに限らない。くつろぎたいと思い、愛情を独占したいとき、ひいは当然のことのように私にしなだれかかり体重を預けてくる。そうでなくとも、何気ない素振りで体の一部をくっつける。眠るときは、私が寝返りを打つたびどうしたら触れ合える面積が大きくなるか確認しながら寝相を変える。すべてを受け入れられているとする確信があるかのごとく、ここに遠慮などない。先の例で言えば、夫婦で会話をしていても関係なく二人の間に割り込んできたり足下にきて、私に体を押し付ける。
 遠慮が消えたのは自信の現れだ。
 そして、どうも私のひいへの気持ちを見抜かれているような気もする。私にとってひいはペット以上の存在で、中年になって授かった娘に似たようなところがあると言えなくもない。無条件に愛おしいのだ。このような父性本能につけこんで「オトウはちょろい」とまでは思っていないだろうが、オトウなら先回りして気付いてくれて当然と考えていそうだし、甘えたい気持ちを拒絶されないと信じるようになったのだろう。
 自信はいいが、「私だけ見て。気付いて」と、お姫さま気取りの気味がないとは言い切れない。お姫さま気取りは思い上がりの最たるものを意味するし、度を超す手前で妻がひいを叱るのは躾として正しい。でも群れの平和が乱されないかぎり、四六時中ではないのだからある程度は許してやりたいと思う。なぜかと言えば、ひいは女の子だから。ひいは犬の祖先の野生のオオカミのように相思相愛の夫を得ることはないので、たとえ別物であっても、女の子としての幸せの一部分でも満たしてやりたいのだ。
 私が男親として失格なのは承知している。

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