なぜ、ここに犬がいるのだろう。と、ひいの姿を見て不思議な気持ちになるときがある。私と妻が望んでひいと暮らすようになったのだから家に犬がいてあたりまえなのだが、まったく違う生き物なのに人の暮らしにすっかり溶け込んでいる様子が妙だ。
気がつくと家に見ず知らずの者がいて、その平然と暮らしている様子にひどく戸惑うが、事情を知らないのは私だけという事態が起こったら何を信じたらよいかわからず呆然となるだろう。まさに、こんな感じだ。
ほんの一瞬だけ去来して何ごともなかったように消え去る気持ちと、日常のひいとの生活と、どちらが幻なのか考えるのはおかしいとわかっている。しかし、ふいに訪れる奇妙な感覚はあまりに生々しくて私をどきりとさせる。
もちろん、ひいがいない生活は考えられない。
いや、ひいがいなかったとき私はどのように暮らしていたかなかなか思い出せなくなっている。
いったいどんな朝の目覚めだったのか、どんな一日の終わりだったのか。私と妻はどんな会話をしていたのか。記憶を遡ろうとしても、ずっとひいと一緒だったように思えてならない。いまの生活から、ひいを引き算した残りがかつての日々だったとするのも違うような気がする。私の思い出と感覚はつくり変えられ、元に戻れなくなっているようだ。
「なぜ、ここに犬がいるのだろう」と目の前に別世界が現れるとき、私は我に返っているのかもしれない。ひいがいるのはどこが起点かわからないずっと前からではなく、ひいがいる理由もはっきりした事情があってのことで、空気や水のように私に最初から用意されていたものではないのだ。
犬を飼おうと言ったのは妻だ。
それは自分が犬と暮らしたかったというより、すっきりしない日々を送っていた私を思っての提案だった。何かと言うと理由を付けて近所のお宅の門のそばにいるゴールデンレトリーバーに会いに行っていた私を見て、家に足りないものがあり、それが犬だと慮ったのだろう。こうして彼女は里親募集サイトを探し回って、ひいに一目惚れした。
ひいはジグソーパズルの最後の一ピースだったのだ。
これが、ひいが我が家にいる理由だ。私にとっても、妻にとっても、たぶんひいにとっても、群れというパズルは完成されなければならなかった。こんなことさえ忘れていた。
のみならず、妻がいなかったときの生活の記憶が曖昧になっている。ともすると、ずっと一緒だったかのように。
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