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犬は考える


 お隣の家で暮らす雑種犬パックンチョ兄弟の白黒君は、女の子であるひいとどうしても仲よくなりたいらしく、日頃のやんちゃさを押し殺しジェントルに振る舞おうとしていて微笑ましい。しずしずとひいに近づき、キュウと囁くように鳴き、そっと耳のにおいをかぐ。内弁慶で外ではびびり屋のひいの性格を知って、頭を働かせ行動しているのが見て取れる。男の子の立場から、かなり的確な判断をしていると言える。
 恋にかぎらず、犬はあれこれ考えている。
 甘噛みひとつとっても、どこまで強く噛めるかさぐりを入れる。もっと噛みたい、しかしこれ以上は相手を傷つけるかもしれない、という思慮が窺い知れる。ただ欲望に従うだけでは安寧とほど遠い生きかたであることを、犬は知っているからこそ考えるのだろう。
 犬が群れのボスに従い秩序を保つのは、暴力による報復が恐ろしいからではないとも言える。暴力は秩序の対局にある。恐怖によってまとまりが生まれたとしても、平和とは呼べない。もちろん力があるものに逆らわないほうが、力があるものに愛されるほうが、いろいろ得なはずだ。しかし、いきなり吠えかかったり、いどみかかってくる犬を、犬は嫌う。これは犬と人間との関係でも同じだ。乱暴な人間がいつも犬から主として認められるとは限らず、暴力をふるえば犬が従うなどということはない。互いを尊重しあうところに秩序が生まれ、そして平穏な暮らしと秩序は切っても切れない関係にある。
 敵対するものに対しても、犬は考えてから態度を決める。
 十数年前にCM撮影のロケハンのため石垣島に行き、見渡す限り緑一色の牧草地に迷い込んだ。いつの間にか犬の群れに取り囲まれ、じわじわ距離を縮められていると気付いたときは引き返すという選択肢が既に現実的ではなくなっていた。全速力で走って逃げても手遅れだったろう。
 目の前まで迫った犬たちは怒りの表情をあらわにし、それぞれが意思を交わしあっているのがわかった。低いうなり声をあげるもの、鼻先に皺を寄せるもの、すべての視線が私に集中している。へたに動けば、この緊張状態は暴発し一瞬にして無数の牙が襲ってくる。
 一触即発の状況となって、私にできることは挨拶だけだった。その場にかがみ込み、ゆっくり犬たちに手のひらを差し出す。すると一匹が余裕綽々とやってきて、用心深く手のひらのにおいをかいだ。この犬が群れのボスらしい。しばらくにおいをかぎ、私の様子をうかがうと、くるりと反転して何ごともなかったように遠ざかって行った。他の犬たちも、これに従った。去りながらボス犬は何度もこちらを振り返り、その眼はあきらかに私を赦していた。「こっちへきてもいいぞ」と言っているかのようにだ。事実、その場から私が先へ進んでも犬たちはもう威嚇してこなかった。
 縄張りを犯した敵に牙を剥くのは、犬の生まれ持った性質のひとつ。犬の中に、こうした本性が太古から脈々と生き続けている。しかし、石垣島の犬は私を赦した。挨拶で仁義を切れば相手を尊重したことになり、尊重された側はこちらの立場を認め、その場に秩序が生まれる。血を流すのをいかに回避するかボス犬はぎりぎりのところまで状況を見極め、考えていたのだ。
 ひいがベッドに寝そべりぼうっとしている。お気楽の極みだ。これを見て私と妻は幸せを実感する。もちろん、ひいも幸せを謳歌しているだろう。我が家の秩序は大それたものでなく、この程度のものとしても、オトウとオカアと自分との関係についてひいなりに折々に考え判断してきたのだろう。穏やかに暮らしたい、だったらどうしたらよいか、と。
 考えが裏目に出ることも多々あるだろうが、自らが尊重されるため、私たちを尊重してくれている。

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