実家で飼っていた純白の雑種犬ダーリンは首輪を嫌っていた。なにかの事情で外した首輪を着けようとすると、不快そうな表情をして身をよじる。首輪嫌いは終生かわらなかった。対してひいは、首輪に何も感じていないようだ。外そうとしても着けようとしても態度は変わらない。
ひいにとってどうでもよい首輪だが、私には重要な意味がある。
首輪には迷子札をはじめとするひいの身分証がついている。ひいが迷子になったとき、身分証が彼女の命を救う唯一の手だてになるかもしれないのだ。もし夜中に我が家が火事になって、ひいを外に放つのがやっとだったとしたら、みんな揃って寝るとき首輪を外しておくのは危険すぎる。こんなことを考える私は、小心で億病なのだろか。
もうひとつ重要な点は、首輪を外すと別のひいが目の前に現れることだ。
首輪をしていないひいは、飼い主の欲目だろうが美しい。首周りだけの二センチほどの幅の布にすぎないのに、生き物が持って生まれた最善のかたちを首輪は隠してしまう。口の先から尾の先までの流れるような線の抑揚が、なぜか消されてしまう。だから時々、私は首輪を取ってひいを眺める。こうして、ひいの父と母が、祖父と祖母が、ずっと昔のご先祖さまが与えてくれた肉体に私は感嘆する。
それはすこしエッチな感覚かもしれず、端正なヌード写真を見て眼が離せなくなるのに似ている。上等な服を纏っている人体よりも天が与えた裸体のほうが心が揺さぶられ、どきどきしてくるのと同じかもしれない気がするのだ。あるいは飼い犬であるひいの中に、野生を発見してどぎまぎするのかもしれない。
首輪をしていないひいと私の距離は、遠いのか、近いのか、と考えさせられる。首輪が人と犬の主従関係を象徴するものだとしたら、ひいは首輪を外されて私の手から離れたと解釈することもできる。しかし、それでも互いが心を交わし求めあっているなら、むしろ距離が近づいているのかもしれない。こんな微妙さが、曖昧な何かを確かめたいと私に首輪を外させてもいる。
生まれたままの姿のひいと、洞窟の中で焚き火をして暖をとる原始人の私の姿を夢想する。ひいとともに狩りに出かけ、ひいと獲物をわかち、ぴったりくっついて眠る。外していた首輪を元通りにして、この夢想は終わる。そこには眼鏡をかけ服を着た私と、狩りをしたことのないひいがいる。これはこれで失いたくない平穏な日常だ。
首輪を外されたり着けられたりしたひいは、きょとんと私を見つめている。
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