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バベルの塔が崩されたときから


 旧約聖書に「全地は一の言語一の音のみなりき」とある。バベルの塔の建設にまつわる『創世記』11章の冒頭の記述だ。ヨセフスによる『ユダヤ古代誌』には、「もし神が再び地を浸水させることを望むなら、神に復讐してやると威嚇した。水が達しないような高い塔を建てて、彼らの父祖たちが滅ぼされたことに対する復讐をするというのである」と人々が天を突く高い塔をつくろうとした理由を説明している。これを知った神は、人間が復讐を試みるため一致団結した原因は言葉が同じであるためと考え、者どもに違う言葉を話させるようにした。このため彼らは混乱し、世界各地へ散って行ったとされる。
 神の判断は正しかったのだろうか。
 もし全世界が一の言語、一の音のみであったらなら、今日までの永きに渡り繰り返された争いと憎しみの再生産のうち数多くのものが回避されたのではないかと思えてならない。特定の言語が世界標準とされ、これを母語としない者たちが蔑まれることも、誤解を招かぬよう苦心惨憺することも、どうしても意図通り正確に置き換えられない言葉や文脈をもとに揚げ足をとられることもなかったはずだ。
 言語が違うというだけ、使われる文字が違うというだけで、異なる言葉を話す者同士の間にバベルの塔なみの高い壁が立ちはだかる。これだけで腹を割って話し合おうとする気が失せる。得体の知れない奴らだとなる。面倒だから関わらないほうがよいとする気持ちを持つ者がいても、責められない気がする。
 私とひいは同じ言語を持っていない。
 互いに歩み寄り、ひいは日本語の単語を憶えようとし、私は犬独特の声と様子から気持ちを汲み取ろうとする。犬は文法を解さないと証明されているらしいが、私はなるべく簡単な言葉を選びひいにくり返し静かに語りかけることにしている。「オカアは出かけた。出かけても、戻ってくる。ひいとオトウの家に戻ってくる。心配するな。寂しかったら抱きしめてやる」などと。
 ひいがどこまでわかっているか謎ではある。ただ、毎日、顔を合わせる度に何がしかの言葉を掛けているうち、ひいは様々な単語の意味と背景を理解するようになった。驚くほど複雑なモノゴトを理解できているとしか思えない行動を取る。呪文のように私がつぶやく、「ひいはいい仔だ。ひいは心が優しい女の仔だ。ありがとう。ありがとう」の声も、漠然とではあっても気持ちが通じているだろう。そう信じることにしている。
 大学の心理学の講義中に先生から聞いた言葉が忘れられない。
「子供がよいことをしたとき褒めず、悪いことをしたとき怒る、を続けると親に反応してもらいたくて子供はわざと悪いことをするようになる」
 子供に限らず、相手にされたくて人を小馬鹿にし、暴言を吐く人々がインターネットの世界に多数いることを思えば、先生の指摘は間違いではないとわかる。これが、犬には関係ないことと嗤えるだろうか。
 私は同じ群れのメンバーであるひいに自信を持ってもらいたい。群れの中での地位は低くても、ひいがひいであることでオトウとオカアが幸せに暮らせているわけで、まったく卑屈になる必要はない。だから、ひいが私の顔をくまなく舐めてくれるように、私はひいに感謝の言葉を告げ続ける。徒労とか犬馬鹿と言われても、互いの間にある壁をさらに厚くする真似だけはしたくないし、双方がいつでも自分の気持ちや願いを伝えられるようにしたいのだ。
 すくなくとも、話しかけることによって「おまえは無視されていない。おまえに伝えたいことがある。おまえと心を交わしたい」となんとなくわかってもらえればそれでよい。

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