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犬と人の心





 犬を擬人化するのは好まないけれど、犬に心があることは間違いないと思う。なぜ擬人化することを好まないかと言えば、犬の心はたぶん人の心とまったく同じではないと、これまで飼ってきた犬たちを見て感じるからだ。擬人化とは、人の勝手な思い込みで相手が自分と同じような気持ちのありようをしていると、相手に自分を重ねることだ。たとえば、花の枝を折って「痛いでしょう」と言い、花が枯れるさまを見て「苦しいでしょう」と言うことだが、これは人の心の動きとして否定されるようなものではないし、人間らしいところでもあるのは事実だ。しかし、犬との付き合いはそれだけでは何かが不足していて、何かが違うように思われる。
 人が洞窟生活をするような原始の時代から、傍らには犬がいた。
 オオカミの子供をかわいいという理由で人間が連れてきたとも、オオカミが人間の食べ物のゴミを期待して寄ってきたとも言われている。オオカミは人に慣れないけれど、最近の研究ではすこしでも人懐こい個体同士を掛け合わせるとすぐ人に慣れる動物に変わることがわかっている。こうして犬は誕生し、ゴミ掃除屋としてだけでなく、狩りの友になった。頭ばかり大きいくせにか弱い人間に、犬は敵が近くにいることを教えた。狩りは格段と効率的になり、暮らしは安全になり、原始的な人間が人として新たな高みに進む助けとなった。犬と人は、まったく種が違うけれど切っても切れない関係にあるのだ。
 なぜ関係ないもの同士が、狩りの友、暮らしの友になったのだろう。
 それは互いに餌を得る上で効率的だったからに違いないが、獲物を分け与えあうことができたから友であり、ただ単に高率一辺倒な理由だけではなかったのではないか。ここに犬と人の原初的な心のやりとりを見る思いがする。犬は道具の存在だけではなかった。人の家族、人の群れの一員になったのだ。獲物を互いに分けあったとき、それはいまの私たちが好意を抱いている人同士で食事をする楽しみや、食事をいっしょにすることで絆を深めるのと同じ気持ちが働いていたことだろう。ここに心の交流がある。我が家の床を走り回っているロボット掃除機ルンバとは違う。
 ひいと私たち夫婦がひとつの小さな群れとして暮らせるのも、心の接点があるからだ。
 ひいは餌だけのために私たちに甘えているのではない。私に何かあると心配を共有しようと態度が変わり、平和なひとときを共に安らかにくつろぐことを望んでいる。これは私と妻の間の気持ちと何ら変わるところがない。宅急便のトラックの音に向かって吠えるのは迷惑ではあるけれど、群れに侵入してくるものを察知し、群れの安全を守ろうとしているのだろう。
 しかし、ひいの心のすべてがわかるわけではない。群れの生きものとしての心はとても人と似ているけれど、私たちには理解しきれないひいなりの何か異なる心の動きがあるのがわかる。それを習性と呼ぶのが科学的には正しいのかもしれないが、遺伝子に組み込まれた機械的な本能だけでなく、そこに感じること、考えること、心が動くことがあるようにどうしても思えてならない。
 窓を開ける。ひいがやってきて、鼻先を外へ突き出す。ずっとそうしている。風のにおいをかいでいることはわかるけれど、私たちが庭を眺めるのとは何かが違う。
 お気に入りのソファーに座って私を見ている。眼の中にある感情は、私の心のあり様を読もうとしている。ひいにも私の心のすべてがわかるわけではなく、わからない何かを知りたがっている。もどかしいのか、不思議なのか、群れでありながらわからない孤独なのか。
 ここに挙げた例を擬人化とは思わない。むしろ逆だ。
 分かり合えるけれど、互いにわからない心がある。もしかしたら私が思っている以上に、わからない部分のほうが大きいかもしれない。だけど愛し合っている。心を近づけようとしている。これがひとつの群れとなって犬と暮らすということではないのか。

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