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ごちそうの日


 煮込みをつくろうと牛すじのパックを開けるや、ひいがやってきて台所を覗き込む。鼻が効くひいが牛すじのにおいを嗅ぎつけたのもあるが、台所からおいしい何かが出てくることを知っているのだ。もちろんひいの取り分も考えて牛すじは買ってきてある。
 牛すじはまず圧力鍋で柔らかく茹でるが、準備をしている間に一歩、一歩と近付いてきて、きちんとお座りしてこちらをじっと見詰めている。「あとでな」と言うと、納得がいかないのか、それとも「ちょうだい」とねだっているのか小首をかしげた。
 牛すじと水を入れ、蓋を閉めた圧力鍋を火に掛ける。しばらくして圧力鍋のピンがあがり、かすかに牛肉が煮える匂いが漂いはじめるや、さっきよりもひいの眼の光が真剣さが増すのだった。あとは十分後にタイマーが鳴るのを待つだけなのでソファーに座ると、ひいは私のそばと台所を行ったり来たり落ち着かない。十分経って火を止め、そのまま圧力が下がるのを待つ。圧力が下がったのを見計らい鍋の蓋を開けると、濃厚な牛肉風味の湯気がもわっと上がる。たまらなくなったひいが、勢いよく飛びついてきて立ち上がった。もしひいの身長が人間の子供くらいあったら、鍋を覗き込んでいただろう。
 熱々の牛すじを一口大に切りつつ、ひいの取り分を小皿に分けていく。これから人間の取り分は大根を入れ味付けをするので、ひいの分はテーブルの上に載せておく。ひいはテーブルの下を小走りに回り、小皿を置いた場所がわかるとそこをじっと見詰めた。だめだめ、まだだ。手で触れないくらい熱いからトングで掴んで切ったくらいだ。
 この日の人間の夕食のあと、ひいに牛すじをやった。このときを待ちわびていたひいは、脇目もふらず旨そうに食べている。食べ終えたひいは、「まだあるんでしょ?」とでも言いたげに、じっと私のほうを見た。いっぺんに食べたら食べ過ぎだ。残りは明日だ。
 翌日は人間がおやつにしようとサツマイモを蒸かした。蒸籠からサツマイモの匂いが甘く拡がると、ひいは台所が気になってしかたなくなる。こちらもひいの取り分を、ほどよく冷めたところでやった。サツマイモもひいの大好物で、食べさせる前にお座りを命じるとキレのよい素早い動きで座り微動だにしない。食べ終えて「もっとちょうだい」とねだってくる。いっぺんに食べたら食べ過ぎだ。今日は取っておいた牛すじも食べたんだぞ。残りは明日だ。
 数日後、おでんを煮た。具のひとつとするゆでたまごの殻を妻がフォークの背で叩いて割ると、かすかな音を聞きつけて寝室からひいが駆けて来た。殻を割る音、ゆでたまご、自分も食べられるとひいは理解しているのだ。牛すじやサツマイモ同様に、ひいのぶんもたまごは茹でてある。
 我が家でひいのごちそうと言っても、この程度のもの。二月になって牛すじ、サツマイモ、ゆでたまごのほかにごちそうだったものは、茹で鶏、焼鳥屋でヤゲンと呼ばれる鶏の胸の軟骨だ。先月は煮込みに使う白モツ、牛テールにくっついている肉の部分も食べた。日頃はカリカリのドライフードと犬用おやつを文句も言わず食べてくれている。
 ひいのごちそうは私たちが食べるものの味付け前の状態が基本だ。いつからこういったものをやるようになったか記憶は定かではないが、私たちが台所で料理をし、匂いを嗅ぎつけてひいがやってきて、あまりにほしそうな顔をするのでお裾分けをして、という経緯だったように思う。そのうち買い物をしているときから、これはひいが好きそうなものだなとか、このまえ喜んでいたからひいの取り分も考えておこうと売り場を眺めるようになった。好きそうだなと買って分けてやってもあまり口に合わないものもあるようで、鶏のボンジリは珍しそうに食べるには食べたが、これまでに名前を挙げたものほどではなかった。
 お裾分けをする私たちの気持ちは、ひいがほしがっているのに自分たちばかりが食べるのはどんなものだろうというか、いっしょのものを食べたくなって当然だろうなというものだ。台所ではちょっとはしたなくそわそわすることもあるけれど、私たちがテーブルについて食事をしているときひいは行儀よく待っていて、これがまた序列に従ってキチンと順番を待っていますといった風情でもある。犬にとって味付けされたものは健康によくないし、タマネギなど中毒を起こす食材もすくなくないけれど、ひいも椅子に座ってテーブルを囲みいっしょに同じものを食べられたら我が群れは楽しさが増すかもしれない。もちろんあり得ない夢想なのだが。
 毎日あるとは限らないお裾分けのごちそうを喜んでいるひいを見ていると、これだけで私までささやかな幸せを感じる。いや、ひいのことを頭の片隅において買い物をするときから、この小さな充実を期待している。ひいへのごちそうは私のためのものなのかもしれない。

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