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クロちゃんの話


 クロちゃんは小柄な黒猫で、クロちゃんという名前が正しいのかわからないが、そう呼ぶ人が多いし、呼べばニャーと応えるからたぶんそれでいいのだろう。ちなみにクロちゃんとみんなが声を掛けていると知る前は、私は勝手にタンゴと呼んでいた。中年以上しか知らないかもしれないが、黒猫のタンゴのタンゴである。
 クロちゃんは我が家からちょっと離れたお宅をすみかにしているようで、この家とこの家の周辺で見掛ける。このお宅の玄関には犬のクレートが置いてあり、寒い季節は電気のコードが家の中から伸びているところを見ると猫用のホットカーペットが敷かれているみたいだが、クロちゃんがほんとうにこの家の飼い猫なのかよくわからない。というのも首輪をしていないのだ。でも餌はもらっているらしく、また家の人が帰ってくるのを待っている風情のときもある。
 玄関先にあるクレートはゴールデンレトリーバーのアカネちゃんのものだと思うのだが、アカネちゃんがここに入っているのを見たことがない。アカネちゃんという名前も本名なのかわからず、そう呼んでいる小学生の女の子がいたというだけで、私はポンコと呼んでいた。ポンコという呼び名に深い意味はない。ポンコは昼間だけ外にいる人懐こい犬で、人間が通りかかると鉄の門扉に前脚をかけて立ち上がり、遊ぼうよと笑顔をつくった。私がポンコと遊んだだけでなく、犬嫌いでなければこのお宅の前を通りかかる人はみんなポンコを撫でていたのではないか。あるときポンコの背中にテニスボール大の腫瘍ができ、たちまち元気を失い、昨年の春ごろ姿が見えなくなった。クロちゃんはいつもポンコのそばにいて二匹はとても仲がよかった。
 クロちゃんはポンコの様子を見て、人間は悪いものではないと知ったのかもしれない。人が通りかかるとニャーと鳴き、それはまるで「ねえねえ」と誘っているみたいだ。そのつど私はクロちゃんに「なんですか?」と近寄り、クロちゃんはしなやかな体をぐにゃりと甘えるように曲げるので頭や背中やお腹を撫でる。すると、ゴロっと喉を鳴らす。ずっと遊んでいたいのだが道端とあってはそうもいかず、「じゃあ、またね」と別れるのもポンコのときと同じだ。私は撫でたり話し掛けるところで留まっているが、このお宅の並びの家の人や、いつも見掛けるお婆さんはクロちゃんを抱きあげている。
 でもポンコと違うのはツンデレなところで、どこかに向かって散歩に出掛けようとしているときなど、「クロちゃん」と呼び掛けてもチラッとこちらを見るもののツンと通り過ぎ姿が見えなくなる。妻によれば、ニャーニャー鳴いているので呼ばれたと思いすぐそばまで行ったら、「別にいぃ」といった感じでさっと遠ざかって行ったそうだ。猫らしいと言えば猫らしい。しかし、このツンとデレの落差がクロちゃんをなおさら愛おしく感じさせているのも事実なのだ。しかもいつもいるとは限らず、どうしても「クロちゃんいるかな」と探さずにはいられない点が重要で、ツンとされても出会えただけでうれしい。
 クロちゃんと知り合ったのは何年前のことか記憶があやふやだが、ひいが我が家にやってくるかなり前で、赤ん坊ぽくて頼りない様子のときだった。やはりポンコのお宅のそばにいて、あまりに心許ない姿で、しかもかわいい美猫だったから家に連れて帰ろうと思い、でも外飼いの猫で飼い主がいたら泥棒になってしまうと踏みとどまったのだ。もしあのときクロちゃんを飼っていたら、それで満ち足りて、さらに精一杯になって、ひいを飼おうとならなかったかもしれない。大袈裟に言うと、ここに運命の分かれ道があった。
 でもクロちゃんにとっては私が飼うよりも、ポンコとの仲むつまじい暮らしを経た、いまの生活のほうがよかったのかもしれない。こんなことを言うと猫の外飼いや野良猫であることをよくないと考える人は異論があるだろうし、私も外で暮らす猫には病気や喧嘩などの危険があり、可愛がる人のほかに迷惑を感じる人がいる可能性をわかっている。しかしポンコのお宅の人は猫用のホットカーペットを用意するくらいだから最初は家に入れようとしたのではないかと想像され、あれだけポンコと仲がよかったら拒んでも猫特有の俊敏さで夜は家に入り込むことができたはずだけど、それをしないで外暮らしなのはクロちゃんの意志のように思われる。気ままな散歩を楽しみ、界隈の人に愛され、気が向いたら人とじゃれ合うのが猫の人生としては楽しいのではないか。念のために書いておくと、クロちゃんは去勢か避妊手術をされているらしく、雄だったら睾丸がないし、雌で外暮らしでも妊娠したことはない。
 ひいは散歩の途中でクロちゃんに出会っても無関心である。だが私がクロちゃんを撫でてから家に帰ったときは、しつこいくらい掌のにおいをかぐ。「あそこの黒猫と遊んできたな」と気付かれているらしいので、「おまえは我が家のひとりっ仔で、おまえのことを大切に思っているよ」とつぶやき、クロちゃんのにおいを消すため念入りに手を洗う。クロちゃんを拾おうか迷った過去と、もしかしたらひいと出会う運命を失っていた可能性がこんなふうに思わせるのかもしれない。

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