ベランダから朝の空をぼんやり眺めていると、家の前の道を小学生の女の子が慌てた様子で駆けて行った。遅刻しそうだったのだろう。
ランドセルにカバーがかけてあり、何か書かれていた。そういえば数日前のニュース映像の端っこに映っていた子供たちのランドセルにも、「交通安全」の標語が印刷されたカバーで覆われていた。いまどきは、カバーをかけるのが当たり前なのだろう。世の中は小さいところまでいろいろ変わる。四十年以上前に小学校に入学した世代だから妙な感慨を抱いたわけだが、彼女が視界から消えたあとカバーの下のランドセルが黒かったのが心に引っかかっているのに気付いた。
いまは女の子でも黒いランドセルを選ぶのか。
そういえば最近は、水色、緑、ピンクと様々なランドセルが売られている。
私が小学校四年生のとき、茶色のランドセルを使っている同級生がいた。彼は、ランドセルが茶色いことでずいぶんいじめられていた。男子は黒、女子は赤、これ以外はあり得ない時代だったというか、認められない変なことだったのだ。ここ何年かは、まあ黒、赤が無難、ほかの色にするなら長く使うものだから後悔するなよ、くらいのランドセル選びなのではないか。
もしかしたら若い人には信じられないかもしれないが、男子は黒、女子は赤という規範からはずれるのは、下着で町を歩き回るくらい異様だとされていたと言っても過言ではない。革の色として一般的な茶色であっても、いじめられる時代がまちがいなくあったのだ。
私のスマートフォンケースは赤だ。机の上の温湿度計は赤みが強いオレンジ。以前、乗っていたバイクも赤。これらが異様に思われることは、たぶんないだろう。だから、小学生が何色のランドセルを背負っていても、銘々、好きずきであってよいはずだ。ランドセルが性別によって黒と赤しか認められなかった時代は、くだらないことに縛られていたのだ。
そしていまも、気付いていないだけでくだらないものごとに私は縛られているのだろう。
ひいは女の仔だ。なので、胴輪は赤を選んだ。首輪の地色は緑が似合うと思ったが、かわいいミツバチの刺繍が入ったものにした。さて、男の仔だったらどうしていただろう。
私はひいに「おまえは、かわいい女の仔だ」と声をかけている。ここには女はこうあるべき、という思いがある。合わせ鏡の向こうに、男はこうあるべきとする気持ちがあることになる。考えはじめ、言葉に出すと、ややこしくなる問題だが、ではそれがまったくいけないことだと断定できない私がいる。
ひいを性別のない、性差のない、ものとして見ることができない。男として女の仔を愛おしみ、かわいがり、教え、叱る、これらの気持ちを捨てて、ひいに接するのは不可能だ。
ひいは人間の男女の別を見分けられる。故に、自らが女の仔であるのを理解しているはずだ。群れの順位だけで私と妻に従っているのでなく、雄である私に女の仔として接しているのは間違いないように感じる。
これが自然なのか、私がこうしてしまったのか、わからない。
こんなことを考えるなんて、変だろうか。
ランドセルにカバーがかけてあり、何か書かれていた。そういえば数日前のニュース映像の端っこに映っていた子供たちのランドセルにも、「交通安全」の標語が印刷されたカバーで覆われていた。いまどきは、カバーをかけるのが当たり前なのだろう。世の中は小さいところまでいろいろ変わる。四十年以上前に小学校に入学した世代だから妙な感慨を抱いたわけだが、彼女が視界から消えたあとカバーの下のランドセルが黒かったのが心に引っかかっているのに気付いた。
いまは女の子でも黒いランドセルを選ぶのか。
そういえば最近は、水色、緑、ピンクと様々なランドセルが売られている。
私が小学校四年生のとき、茶色のランドセルを使っている同級生がいた。彼は、ランドセルが茶色いことでずいぶんいじめられていた。男子は黒、女子は赤、これ以外はあり得ない時代だったというか、認められない変なことだったのだ。ここ何年かは、まあ黒、赤が無難、ほかの色にするなら長く使うものだから後悔するなよ、くらいのランドセル選びなのではないか。
もしかしたら若い人には信じられないかもしれないが、男子は黒、女子は赤という規範からはずれるのは、下着で町を歩き回るくらい異様だとされていたと言っても過言ではない。革の色として一般的な茶色であっても、いじめられる時代がまちがいなくあったのだ。
私のスマートフォンケースは赤だ。机の上の温湿度計は赤みが強いオレンジ。以前、乗っていたバイクも赤。これらが異様に思われることは、たぶんないだろう。だから、小学生が何色のランドセルを背負っていても、銘々、好きずきであってよいはずだ。ランドセルが性別によって黒と赤しか認められなかった時代は、くだらないことに縛られていたのだ。
そしていまも、気付いていないだけでくだらないものごとに私は縛られているのだろう。
ひいは女の仔だ。なので、胴輪は赤を選んだ。首輪の地色は緑が似合うと思ったが、かわいいミツバチの刺繍が入ったものにした。さて、男の仔だったらどうしていただろう。
私はひいに「おまえは、かわいい女の仔だ」と声をかけている。ここには女はこうあるべき、という思いがある。合わせ鏡の向こうに、男はこうあるべきとする気持ちがあることになる。考えはじめ、言葉に出すと、ややこしくなる問題だが、ではそれがまったくいけないことだと断定できない私がいる。
ひいを性別のない、性差のない、ものとして見ることができない。男として女の仔を愛おしみ、かわいがり、教え、叱る、これらの気持ちを捨てて、ひいに接するのは不可能だ。
ひいは人間の男女の別を見分けられる。故に、自らが女の仔であるのを理解しているはずだ。群れの順位だけで私と妻に従っているのでなく、雄である私に女の仔として接しているのは間違いないように感じる。
これが自然なのか、私がこうしてしまったのか、わからない。
こんなことを考えるなんて、変だろうか。
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