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私、気になります(その1)


 誰かが千葉県富里の動物愛護センターに持ち込んだ乳飲み仔四頭のうちの一匹がひいだから、本当の誕生日はわからない。ただし、逆算すると十月のはじめ辺りに生まれたようで、こうなると天秤座生まれであるのは間違いなさそうだし、私の誕生日と同じ十月二日を誕生日とすることにした。
 今年の誕生祝いは、温泉卵を餌に入れてあげること、そして首輪を新調することと決めていた。しかし、目をつけていたてんとう虫の刺繍のチロリアンテープを使った首輪は売り切れで注文製作になり、昨日、やっと手にすることができた。
 家に戻ってペットショップの袋から、ついでに買ったおやつと新しい首輪を取り出すと、いつもならおやつに興味津々なひいが食べ物には見向きもせず、(気になります!)とまっすぐ首輪に向かって行った。
 さらにてんとう虫の刺繍の首輪をつけると、モデルよろしく私と妻に見せびらかすように歩いた。私がこの場を離れると、自室まで追いかけてきて飛びつき、(もっと見て! 新しいの見て!)と居間に呼び戻らされた。私たちのうれしさが自分の首輪にこもっているのがわかるのか、それとも自分だけのものをもらった喜びなのか、とにかくひいはてんとう虫の刺繍の首輪の意味を理解しているらしい。
 仔犬はたしかにかわいい。でも、人と暮らし続け気持ちを互いに解りあえるようになったそれなりの歳の犬は、さらにかわいいものだ。




 

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ごめんなさいです

ひいの成長を振り返ると、まだ幼児なのだとはっきりわかった我が家にきた当時、いろいろなことを学習したけれど行動に幼さがあった時期、大人である私たち夫婦から見て無駄な行動がなくなった時期、そして六歳ともなると人間の大人がそうであるように性格がはっきりして変えようのないものになり、持って生まれた遺伝と生育環境との関係を飼い主なりに考えさせられる。ひいは甘ったれで、私に対する甘えは自分が群れの一員として認められ尊重されている証とでも思っているらしく、ときに強く我を通そうとする態度となって現れる。  先日までオカアは体調を崩していたので、ひいはこれを鋭く察知し我が儘を我慢していたようだった。オカアの体調がよくなると、これまた鋭く察知し、私に対して「外へ行きたい!」などと強い態度で要求しはじめた。「外へ行きたい!」は小便をしたいとほぼ同義なので、そのつもりでドアを開けてやるのだがあっちへふらふら、こっちへふらふらするだけ。暑い日盛りに長々とやるようなものではないから、ひいを家に入れる。すると私が何かに取りかかろうとするタイミングを見計らったように、「外へ行きたい!」だ。つまり、愛情確認。いかにオトウが反応するかで、自分が愛されていることを確認したいだけなのだ。  もし私が「外へ行きたい!」を無視すると、ひいはイライラしてくるらしくワンと吠える。「気付いてよ!」である。これで私がひいの願いをかなえてドアを開けてやっても、あっちへふらふら、こっちへふらふらするだけ。これでは駄目だと思い、私はひいを叱り、ケージの中に入れて放置した。その後ケージから出したが、要求を拒み続けた。  するとようやく自らの我が儘な愛情確認が引き起こした事態に思い至ったようで、私と微妙な距離を取り悲しげな後悔の顔をした。そこで「我が儘は駄目だ」と言いつつ、ひいを撫でてやった。ひいとしては自己嫌悪に陥っていたらしく、距離を取り悲しげな後悔の顔をするのが夜まで続いた。  夜がふけ、私がベッドに寝そべるとすかさずひいは布団にもぐり込んできてぴったり体をくっつけてきた。そして、私が寝返りを打って姿勢を変えるたび、なんとかして体を密着させようとし続けた。 「ごめんなさいです」  のつもりであり、こうして愛情を別のかたちで確認していたのだろう。  たぶん私がひいを甘やかしすぎたのだ。  とはいえ、程よい愛情のかけか…

オオカミよ!

ひいと暮らしはじめてからというもの、オオカミが気になってしかたない。
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 このような思いを抱いてオオカミを求め YouTube をさまよい歩いていたとき、次の動画を見つけた。

[ Reunion between Anita and the wolves http://www.youtube.com/v/3hdUCzbCuYk ]


[ How to Photograph Wolves at Wolf Park / http://www.youtube.com/v/CMCWbF4HG3U ]


[ Wolfgang & Wotan Muzzle Grab at Wolf Park / http://www.youtube.com/v/E3l2vihsQNY ]


[ The Wolves / http://youtu.be/20SWz2Gf_BY ]


 愛犬王とも呼ばれる犬研究の第一人者平岩米吉がオオカミを飼っていて、オオカミが彼に最大最上の敬意を払い心を通わせていたことは本で読んで知っていたが、動画は闊達な平岩米吉の文章をさらに上回る説得力がある。
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