ひいと暮らしはじめてからというもの、オオカミが気になってしかたない。
オオカミが犬と遺伝子的に違いのない動物で、一万五千年ほど前に人間が家畜化して犬へ枝分かれして行ったことはよく知られている。つまり、ひいのご先祖様なのだから親近感が湧くというものだ。しかし、ひいが行く動物病院には、「この犬種からあの犬種がつくられ、さらに」と犬種を網羅した見事な系統図が貼られてはいても、この図の頂上に君臨すべきオオカミが描かれていない。このことが、すこしばかりさみしい。
なぜ、さみしいのだろう。
ひいはたぶん数代続いた雑種で、家畜化されて改良を重ねられた純血種の犬から遠くはずれている。姿かたちは、犬の原種とか原点などと言えるものが仮にあるとするなら、これに近そうだ。しかも、古い犬科の動物に見られる狼爪(ろうそう)があったことも、先祖帰りをしている証拠のような気がする。故に、ひいとは何かを考えるとき、オオカミへの親近感だけでなく、オオカミの中にひいの血を、ひいの中にオオカミの血を見つけたい気持ちがあるのかもしれない。
このような思いを抱いてオオカミを求め YouTube をさまよい歩いていたとき、次の動画を見つけた。
[ Reunion between Anita and the wolves http://www.youtube.com/v/3hdUCzbCuYk ]
[ How to Photograph Wolves at Wolf Park / http://www.youtube.com/v/CMCWbF4HG3U ]
[ Wolfgang & Wotan Muzzle Grab at Wolf Park / http://www.youtube.com/v/E3l2vihsQNY ]
[ The Wolves / http://youtu.be/20SWz2Gf_BY ]
愛犬王とも呼ばれる犬研究の第一人者平岩米吉がオオカミを飼っていて、オオカミが彼に最大最上の敬意を払い心を通わせていたことは本で読んで知っていたが、動画は闊達な平岩米吉の文章をさらに上回る説得力がある。
大好きな人と数ヶ月ぶりの再会を喜ぶオオカミは、しっぽをぶんぶん振って、うれションまでして、もう何がなんだかわからなくなって、大好きな人の奪いあいで喧嘩をはじめる連中まで現れる始末。この喜びようは、ひいが育ての親のAさんと旦那さんに再会したときそっくりで、私が外出から帰ってきたときの大袈裟すぎる出迎えの儀式みたいだ。
野生のオオカミは、ひいがベッドの羽布団を蹴ってかたちを整えるのと同じように脚で地面に巣穴を掘って子育てをする。巣穴の中は暗く、ひいが我が家で一番好きなカーテンを閉めた寝室に通じるものがある。そして、仔オオカミが母オオカミにまとわりつく様は、ひいが布団の中で私に寄り添うのと同じではないか。
ヴェルナー・フロイントは、オオカミは人間に対する警戒心を遺伝的に持っているので、馴らすためには警戒心が強化されない幼いうちに親と離さなければならないと指摘していて、それでも凶暴化するとも書いている。だから、原始の時代に人間が捨てた食べ残しやゴミに寄ってきたオオカミの群れが家畜化されたという説を、たしかにそうなのかもしれないが本当にそれほど簡単なことだったのだろうかと不思議だった。しかし、動画を見たことで長年の謎が解けた。オオカミは人間と深い愛情で結ばれる生き物だったのだ。
でも新たな謎が生まれた。なぜ、オオカミは他の生き物との間には芽生えそうもない愛情を、人間との間に交わすのだろう。平岩米吉の著書によれば、オオカミを飼ったのは彼にとどまらず幾人もいる。おとぎ話の残忍なオオカミ像はつくり話にすぎないけれど、どうして肉食のオオカミが人間を獲物とは見ないのか。それは群れの仲間だと見なされているからだとするなら、どうして猿を起源とするホモ・サピエンスがイヌ科のオオカミの群れの一員、しかも大好きで大好きでたまらない仲間になれるだろう。
これはひいにも言えることだ。
オトウ、オカア、ひいが、家族になって、互いに切っても切れない仲になれることを、犬なら当たり前と片付けられるものではない。犬は一万五千年も人間とともに生きてきて、しかも群れをなす生き物だから、人間と家族になって当然という答えでは不十分な気がする。群れで生きる動物はたくさんいるし、オオカミも人間と家族になれるのだ。
すべては偶然なのかもしれない。
オオカミは一夫一婦制で、つがいは生涯連れ添い、夫が妻が先立つと悲しみは大きく、ときに餌を食べなくなり絶命することもあるという。これは自然な状態にある犬にも見られることだそうだ。また、オオカミは愛情を一身に受けることが生きる上で最大とも言えるテーマになっていると、様々な書籍が教えてくれる。これは犬を飼っている者ならだれしもが経験していることだろう。「愛」によって結ばれ「愛」が欠かせないオオカミの本性は、犬のみならず人間もまったく同じだ。
オオカミという生き物がいたこと、人間という生き物がいたこと、そして両者が出会ったこと、これは偶然だったとしか言えない。しかし、そこに言葉はなかったが、オオカミの愛と人間の愛は共振したのだ。この偶然の出会いの先に、ひいがいる。
私に流れる原始の血とひいに流れるオオカミの血が出会ったのは偶然だが、群れとして互いが生きているのには必然性があった。
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