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3,300キロの想い


 歩き続けてアメリカ大陸をほぼ横断した犬がいる。
 車で旅行中だったボビーはミシガン湖の南方のインディアナ州オルコットで野犬の群れに襲われ飼い主からはぐれてから、太平洋岸のオレゴン州シルバートンにある自宅まで直線距離で3,300キロを半年間かけて戻ってきた。1924年のできごとだ。
 3,300キロと数字を目にしても、私は距離をまったく実感できなかった。自宅がある横浜から青森まで車で旅行したとき、距離計が往復で1,300キロくらい回った記憶から凄まじく長い道のりだったろうと想像するのみだ。もう一往復しても、3,300キロに届かない。
 しかも、地図の上に定規で線を引いたようにはまっすぐ歩けるはずがない。犬はカーナビどころか地図さえ持っていない。3,300キロをはるかに上回る道のりを、ボビーは一頭きりで歩き通したのだ。
 やんちゃ者だったボビーは木の根を掘り返そうとして前歯を三本失っていて、馬に蹴られた傷跡が眼の上にあった。この一目でわかる特徴から、後に多数の目撃情報が寄せられた。
 疲れきったボビーを家に迎え入れ餌を与えた人がいる。一緒に暮らそうとしたが、ボビーは食事が終わると足を引きづり外へ出て、あっという間に地平線のかなたに消えた。
 自宅まであと110キロに迫った地点で、足を血だらけにし眼を真っ赤に腫れ上がらせたボビーは老婦人の介護を受けた。疲労は極限に達していた。このときも老婦人のもとを去り、自宅へ向かって歩き出した。
 こうした目撃情報の点と点を結ぶと、ボビーは見知らぬ土地を西へ西へ、ひたすら歩き続けていたことがわかった。
 何を想い3,300キロ先の自宅を目指したのか。
 飼い主との群れに戻りたい、この一心だったろう。
 ひいよ迷子にだけはなるな、すべての犬よ迷子になるな。いまの私は無力だが、震災で被災した犬たちよおまえらのつらさは痛いほどわかる。そして、厄介者とされ捨てられる犬たちの切なさは計り知れないものがあるだろう。
 どの犬にも距離などものともしない群れへの想いがある。この想いを裏切れるものではない。

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