実家で飼っていた白い雑種犬ダーリンは、ひいのように臆病な犬ではなかったがたたんだ傘をとても恐れた。木の棒やパイプを上に向けて手にした人間がいるだけで警戒した。
元はと言えばダーリンは、海岸近くにめぐらされた柵の中で飼われていた野良同然の犬たちの一匹だった。いまどきだったら動物虐待で保健所に通報されても不思議ではない場所で育ったのだ。
父が見初めてもらってくるまでのことは、生まれてしばらくして海に投げ捨てられたが自力で生還して飼われるようになった生い立ちや、前の年に生まれた姉ミグの耳を噛み切った逸話くらいしかわからない。このような暮らしをしていたら、人間から傘や棒で殴られていても不思議ではない。
当時としては珍しい中型犬の座敷犬として安穏と暮らし、家族の誰一人としてダーリンを殴る者などなかったが、心と体に染み付いた恐怖はそう簡単に消えなかったのだろう。
頭の上に拳を振り上げられても、ひいは表情ひとつ変えない。
棒を持って行けば、遊び道具がやってきたとわくわくしはじめる。
ひいは乳飲み子のとき兄弟姉妹とともに動物愛護センターに持ち込まれ、他の赤ん坊の犬とともにビールケース大のプラスチックの箱に詰め込まれていた。このような出自でも、Aさんに救われてからこのかた人間に殴られたことはない。人間が殴りかかってくるなんて思ってもいないに違いない。それどころか、そもそも殴られるとはどんなことかすら知らないのだ。
世の中に知らなくてもよいことはある。
顔を洗おうとしてぎっくり腰になった私がベッドで身動きできないまま仰向けに寝て養生していると、ひいがやってきて横っ腹にぎゅうと尻を押し当てたた。そしてこのまま伏せの姿勢になり、しっぽをぱたんと私の腹に乗せた。
腹の上を真一文字で横切るしっぽ。いったいひいが何をしたいのかわからないまま、動けない私はとりあえず眠ろうとまぶたを閉じた。それからずっと腹の上にしっぽの感触があった。
どの犬も、しっぽはやたらな扱いをされたらいやがる。それを私に乗せるのは気を許しているからなのか、それとも「無防備にこうするワタシのことわかって」というアピールなのか。
どんなに家族に溶け込んでいても、ダーリンはこんな甘えかたをしなかった。しなかったのではなく、できなかったのかもしれない。
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