本日のひいの写真はウォン・カーウァイ監督作などで撮影監督をしてるクリストファー・ドイル調にしてみた。カーウァイの『花様年華』をイメージしたつもりだけれど、嗚呼、なんか違うな。なぜこんな真似をしたくなかったかと言えば、ウォン・カーウァイの作品に通底する愛について思いをめぐらしていたからである。
人が心に抱く愛の念と、犬の話がいかに関係しているのか。それは、ひいが特殊な暮らしをしている犬であることから説明しなければならないだろう。
人間のオトウとオカアと一日中過ごし、もちろん眠るときも一緒。いつも互いがそばに居ると限らないが、ひいの本拠地というか巣はベッドで、そのベッドは私の部屋と天井まで届く本棚で区切られた部屋にあるから、つねに気配が伝わっていることだろう。
女の仔のひいが、こうして暮らし続けた結果どうなったか。
妻と話し込んでいるとき、ひいは急に私に飛びついて歓心を引こうとする。何か要求があるのか、その状況で考え得る行動に移すが彼女は満足しない。度々このようなことがあって、単にオトウを振り向かせたいためだけにやっているとわかった。
妻が肩こりで悩んでいるときマッサージをすると、ひいは私たちから目を逸らす。必ず、そうする。ちょっといじけた雰囲気を漂わせているので、妻への肩たたきを終えたあと、ひいを念入りに撫でてやらなければならない気持ちになる。
我が家でのひいのポジションは、永遠の赤ん坊である。何らかの責任や使命を押し付けられることなく、かわいがられ守られ続ける群れの一員だ。使命はない代わりに私と妻の心のオアシスで、家族と愛し合いふれあいたい願望を受け止めてくれる係である。
だが、ひい自身は赤ん坊と大人の女の間で揺れ動いている。
オトウとオカアが男女つまり雄と雌であるのをひいが知っていることは何度も書いてきた。そこに、自分と人間は何か違うものらしいけれど、まったく違うものでなく、むしろ犬型をした他のものたちより人間に近い存在という感覚が加わっているみたいだ。もしかしたら、人間とはなんとなくかたちが違うだけと思っているのかもしれない。
群れのメンバーと愛し合いふれあいたい願望は、ひいも変わらない。ただし、そこに別の愛を求める気持ちが芽生えているようにも思える。考え過ぎだろうか。
もっと愛をちょうだい。その愛とは別の愛がほしい。もし人間の女性ならこう感じても不思議でなく、人間とはなんとなくかたちが違うだけの身の上と思い込んでいるならなおさらではないのか。
ひいが私を見つめ口を小さくぱくぱく開け閉めし何か喋ろうとしている。「お昼寝か? ねんねするか?」と私は問うた。ぶるっと身震いするのは(その通り)の意思表示だ。ベッドに横たわると、ひいはお尻を私の腰に密着させて寝そべる。一時間ほどの午睡を共にしない日の彼女は少々起源が悪い。
ひいはたちまち心地よさそうな寝息を立てた。私は複雑な気持ちを忘れようとしつつも、ひいの感情を無碍にできずそのまま姿勢でまぶたを閉じた。
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