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ボツにしたカット


 ひいを迎える日の直前に買ったカメラの具合が怪しくなりかけていて、これはメーカーが悪いのではなく、あきらかにシャッターを押した回数が関係している。銀塩写真の時代は、カメラバッグの中に未撮影のフィルムがあと何本だろうか常に考え、頭のけっこう真ん中に「¥マーク」が漂い続けていた。これがデジタルになると、たがが外れる。
 こうして、膨大な量となったひいの写真がハードディスクに溜まって行く。もちろん、ブログに載せない、プリントもしない写真が山のようにあって、ここにピントや構図は申し分ないものがけっこうな枚数になっている。なぜ仕舞い込まれたままの写真が多いかというと、ひいが人間の女の子だったらこの表情は残したくないだろうと思うものを、タレントのマネジャーがやっているようにボツにしているからだ。たとえば、この日記の冒頭のような面持ちのカットはボツにしてきた。
「ひいのだらしないときが、かわいいのに」
 と妻は言う。
 私もそう思う。そして、だらしなかったり、中途半端な表情のカットも撮影はしている。
 きっと、冒頭に掲げた写真をどうしてボツにしたか理解しかねる人もいるだろう。私は写真を選びながら、この瞬間は私の中のひいではないと判断したのだ。だから、「ひいが人間の女の子だったら」という理由はエゴに対する言い訳かもしれない。しかし、人間のポートレートを大量に撮っていたときも、私の中のその人を現そうとしてきた。ここが私の撮影者としての限界なのだ。
 コンプレックスは数限りなくあるが、絵を描けないことは私にとってかなり大きな心の棘(とげ)となっている。小学生のとき画用紙いっぱいにどーんと写生して先生に褒められたことはあったが、いつまでたっても兄のようにマンガの主人公をそっくりに模写できなかった。そして、自分が描く線が美しくないのを知っていた。線の美しさは、天性のものだ。でも、平たい紙の上にどうしても描きたい。写真なら、自分の思いを形にできるだろうとカメラを手にとった。
 もし可能なら、抽象ではなく具象画、油ではなく日本画の線でひいの姿を描きたい。画風や世界観の好き嫌いといった感情を越えたところで、池永康晟氏(http://ikenaga-yasunari.com/)のような線でひいを描きたい。一枚を完成させるために、一年、二年と費やしてもよいと思う。
 それとは別に、感じてやまないことがある。写真家荒木経惟氏の作品に触れるにつけ、自分の中にある衝動と、衝動の発端となる対象との距離の保ちかたが、写真の格を決めると頭を殴られるような衝撃を受ける。荒木氏はアラーキーにしか撮れない瞬間をものにしていて、これは撮影者として選択した一瞬であるのに間違いなく、被写体はありのままそのままの自分を残酷なまでに晒している。このカットを選び出すことに、荒木氏の被写体への限りない愛がある。過剰なまでの愛でありながら、自分を突き放しているとさえ見える。この愛には、どんな価値観、どんな法に対しても闘える強靭さがある。
 私の撮影者としての限界とは、これだ。
 ひいの写真は美術館で展示されたりカレンダーとして売ったりするものではないのだから、それでもいいじゃないかとするのが普通だ。
 だが、ここにも私のコンプレックスが立ちはだかる。
 私は、愛情を伝える「普通」の術を知らない。拙いのは重々承知だが、文章でしか気持ちを現せない。同じように、写真でしか愛を伝えられない。みんなにできることが、できない。
 例をあげれば、年賀状だ。たかが年賀状と言われるかもしれないが、挨拶をする相手に親愛の情を感じれば感じるほど、あけましておめでとうのような言葉では伝えられないと、いい歳をしているくせに悩む。写真を印刷するだけだとしても、容易にカットが選べない。ある年、封書にして一人ひとり別の言葉を綴り賀状を送ったことがあるが、こんな長ったらしいものを送ってくるのは変な人で、芝居がかってる、重たさが気持ち悪いとされ、自らの情けなさを痛感した。年賀状をもらうのは、とても嬉しいのに。
 ひいの写真を選ぶたび、自分の変さ加減と、愛したい、愛されたい気持ちが堂々巡りする。ヘボな文章と写真でしか、相手と向き合えない自分について考える。ここに荒木氏のような強靭さはない。
 もし書くことができなくなったら、写真を撮れなくなったら、私は秋を迎えた夏草のように朽ちるだろう。そうならないためにも、ラブレターを書き続け、愛するものが生き物だろうとモノだろうと撮りつづける。多くの人に伝わらないものだとしても、たとえ一人、一匹に向けたものだとしてもやらなければならない。そして、越えなければならないものを見据えなくてはならないのだ。
 まずは、「ひいのだらしないときが、かわいいのに」をかたちとして残したいと思う。

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