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仕事は見て憶える派

 ひいは私の後をついて回る。そして何をしているかというと、ソファーで寝転んでいたり、ちょっとこちらを覗き見するだけ。一緒に暮らしてもうすぐ五年ともなれば、私もひいを意識しない。時折、退屈していないかと顔を見て、撫でてやるくらいのものだ。  私が家ですることなどたかが知れていて、箇条書きにしても五行以内に収まるのではないか。だから、自室を出る、居間へ行く、台所に入る、などといった私の行いの次に何がはじまるか、ひいはわかっている。わかっているだけで、これといって手助けしてくれるはずもないし期待もしない。昨日まで、そう割り切っていた。「猫の手も借りたい」ならぬ「犬の手も借りたい」ときでも。  昼食をつくろうと出汁を取りうどんを土鍋で煮た。鍋焼きうどんづくりは、なんとなく私の担当になっているのだ。ひいは台所と間続きの居間のソファーにいて、私はガス台の前に立って土鍋にうどんを入れ蓋をした。あとは煮えるのを待つだけ。ひいを撫でていれば、その間にできあがりのはずだった。  ソファーでくつろいでいると、ひいがすくっと立ち上がり、やけに真剣な目で台所を見つめた。何ごとかと思ったが、煮上がりの時間をセットしたタイマーは鳴っていないし、のんびりしていればよいだろうと高をくくった。「ワン」とひいが吠えた。 「大きな声を出すんじゃない」  と言った直後、出汁が吹きこぼれる音がした。  慌てて台所へ行くと、沸き立った出汁が土鍋から溢れコンロの火口の周りでじゅうじゅう音を立てている。おっとっと。急いで火を消した。  ひいは、煮立った出汁が土鍋から溢れるのはまずいと知っていたのだ。いや、それだけではない。溢れる前の兆候を知っていて、「気をつけろ」と吠えたようだ。もしかしたら、鍋焼きうどんをつくる手順まで憶えているのかもしれない。  ごろごろしているだけのようで、いつの間にか台所の一大事をわかるまでになっていた。そして、異常があれば鈍感な人間に教える役割を担っていたのだ。そう言えば、数日前に塩鮭を焼いていたら鍋焼きうどんのときのように台所に向かって「ワン」と吠えた。グリルの中を見てみると、絶妙な焼き加減だった。あれも「焼けてますよ」の合図だったのだろう。鍋焼きうどんの件といい、塩鮭の件といい、「犬の手を借り」たことになる。 「火事になったのを教える犬がいるけど、ひいもやりそう」  と妻は言った...

この犬、噛む?

「こんにちは。触ってもいいですか?」  以前、ひいを散歩させていると小学生の女の子に声をかけられた。 「ごめんね。この仔、臆病だから」  女の子には悪かったが、パニックを起こしひいが噛んだりしたら双方にとってよいことはないので断った。不測の事態を思い描いたのは、ひいへの興味が高揚しすぎで、悪意はないのだろうが人間本意な具合が見て取れ、この子は犬に慣れていないと直感したからだ。生きているぬいぐるみ、を期待されていたといったところか。  我が家の隣人である犬を飼っている旦那さんなら、おもむろにひいに近づいても止めはしない。犬との間合いのとりかた、表情の伺いかたをわかっているからだ。「いやだ。こないで」とひいが反応した瞬間に、旦那さんは近づくのをやめるだろう。ましてや、いきなり頭を撫でたりするはずがない。ここに犬との付き合いかたを知っている人と、そうではない人の違いがある。  私が高校生のとき実家のベランダを修理したのだが、家族が眼を離した隙に飼い犬のダーリンがペンキ屋のおじさんを噛んで流血騒動となった。歯が作業ズボンを貫いたほどだから、ダーリンの怒りは頂点に達していたと思われる。おじさんはいきなり噛まれたと憤っていたし、噛むほうが悪いのは事実なので丁重に謝罪し治療代を包んだが、身贔屓するわけではないけれどおじさんがダーリンに何か余計なちょっかいを出したのが騒動の発端ではなかったか。おじさんは仕事にきたときから、酒くさかった。  いっぽう、どちらも悪くない場合もある。  姪が我が家にやってきたとき、ひいを見て「噛む」と怖がった。聞いてみると、よそのお宅で犬に噛まれたと言う。犬が本気で噛んだらペンキ屋のおじさん事件のような流血の大騒動になっていたはずだから、すこしも痛くない甘噛みだったのだろう。そうであっても犬を飼ったことがない者は恐怖が心に影を落とし、犬嫌いになる。犬を怖がる人を犬は嫌うので、ますます危なっかしい事態になる。この悪循環は容易に断ち切れない。  石垣島の草原で犬の群れと対峙した話をこの日記に「犬は考える」(2012年9月23日)と題して書いたが、彼ら彼女らの群れがそうであったように犬はぎりぎりまで実力行使を避ける術を模索する。どこまでがぎりぎりなのか犬によって違いはあるが、相手に立ち去るくらいの猶予は与え、やたらに噛み付いてくるものでは...

群れの中の肯定と否定と拒絶(年のはじめに)

 オオカミの中で懐っこい者が原始の人に近づき仲間に入ろうとしたのが犬へ連なる歴史の第一歩だが、別の生き物の中に難なく溶け込んだことを懐っこさだけで説明できない。しかも、一万数千年とも三万年とも言われる間、人と切っても切れない関係が続いている。懐っこさはきっかけに過ぎず、双方、群れで生きる似た者同士だったからうまくいったとするほうが合点が行く。  ひいと私たち夫婦の出会いは、太古のオオカミが経験した人との出会いとあまり違いないかもしれない。我が家は、オトウとオカアの小さな群れだった。ふとしたきっかけでひいを知ることとなり、ひいは私たちを好いてくれ、私たちはひいを迎え入れ、二人と一匹の群れとなった。この三者に、血のつながりはない。親子が共に暮らす動物や、一か所に集まって眠る動物はあまたあるが、事情を共有して血の縁や種の違いをものともせず共に生きる動物は稀だろう。  ひいと私たち夫婦にはもうひとつ共通の群れがある。Aさんによって保護され巣立って行った犬と、その飼い主の皆さんが集まる群れだ。これをひいは我が家より大きな単位の群れとわかっているらしい。卒犬の同窓会で出会う犬や人と動物病院などでの行きずりの犬や人は明らかに別ものらしく、初対面であっても後者には向けない友好的で気安い態度をとる。同窓会が催されるドッグランでは他の犬とともに斥候役につき、群れの警備に当たりもする。  人の群れと犬の群れの共通点がここに見いだされる。  血のつながりと同等か、それ以上の意味と事情があって群れができる。  群れとは、異なる者を「ここに居てよい」と「肯定」する集団で、互いが抱える違いを認め合った集まりと言えそうだ。犬を飼うのは珍しいことではないように思われているけれど、犬にしてみれば二本足で歩き鼻も耳も劣っている人間、人間にしてみれば手指が使えず言葉が喋れない犬、が同居できるのは相手の違いを認めているからに他ならない。犬と人の違いをあげればきりはないが、認め合うこと一点を扇の要として群れはまとまっている。  この群れが群れであるためにルールが必要だ。群れの平穏を乱す行いがあれば、その行いは「否定」される。ひいは卒犬の同窓会ではしゃぎ過ぎ、年齢的にお姉さん格で子育て経験があるみのりちゃんに叱られたことがあった。首根っこをガブッと、でも傷つかないように噛まれたのだ。ひいは静かになり、みの...

逃れられないものが親から子へ

 ひいの散歩をするとき履く靴を秋の終わりに買い替えた。散歩の途中で汚れても苦にならず、雨の日に水がしみ込まず、こんな期待を裏切られるかもしれないから安いほうがよいと、行きつけのスーパーの自転車コーナーの隣りの特価ワゴンから選んだ。特価品とはいえ、名の通ったメーカーのショートブーツだ。箱に、完璧なまでの防水と防寒の効能が書かれている。とはいえ実用一点張りで、アメリカの田園地方の男がピックアップトラックに乗るとき履くような見かけで、いまどきの日本ではダサイと笑われてもしかたない靴だ。  これが快適この上なかった。箱に印刷されていた説明通りだっただけでなく、気分が楽なのだ。履き心地は元となる木型や材質や製法だけで決まるものでないと思い知らされ、実は気分の軽さがとても重要とわかった。  靴に凝り、メーカーを決め、店を決めて買っていた十年ほど前は、こんなことは思いもしなかった。靴熱が冷めてからも、スニーカーは趣味ではないと言い、普段履きでも布や合成皮革の靴に抵抗があったり、かたちにこだわったりしてきたのだが。  数日前、この靴を買った同じ場所に今度はアウトドア用の長靴が並んだ。「ああ、これだよ。これが求めてるものなんだ」と感嘆している自分に気付いたとき、複雑な感情がこみ上げてきた。いつの間にか、私は父そっくりになっていたのだ。  母は子供だった私に、見合いの席に父が晴天だというのに背広で長靴という出で立ちをしてきた話を幾度もした。父は長靴を履かなければならない職業ではなく、金融関係のそれなりのエリートだった。父のこんなセンスのなさが、子供ながらいやでたまらなかった。  私が成人してからも、靴箱にきれいな革靴がありながら父はぼろぼろになった安物をガムテープで治して履いていて、ケチなのか自虐趣味なのかと、とてもイライラさせられた。このような私が、特価品の長靴に魅かれるとは。実用一点張りのショートブーツを、華やかなショッピングセンターに行くときも履くようになるとは。スーパーで長靴を買っていたら、毎日、出かける度に履いていたことだろう。  長靴に関わる遺伝子などというものはないだろうけれど、父から私へ確実に引き継がれたものがある。歯磨きのとき鏡に映る、年々、父に似てくる自分の顔以上にそっくりなものが体と心の隅々にある。  ひいは千葉県の動物愛護センターで乳飲み子の...

共鳴する心のうち

 ひいが何かの具合で妻にくっついて眠ると、私はもやもやした気持ちになる。おまえの定位置はオトウの脚の間だろ。まずは股に腰を下ろし、その後、脚の間に体を伸ばす。そのままぐっすり眠って、オトウが寝返りを打つと寝相に合わせてひっついてくるのがいつものことではいないか。と、ひいの体温を独り占めしている妻がうらやましくなり、ひいはオトウのことを忘れたのか、とまで思う。なんという見苦しいまでの嫉妬心。  ひいと眠る心地よさを説明しようにも、一言で表せる単語が見つからない。そして、犬に変わる同じ心地よさも私は知らない。体温と柔らかな毛と重みが渾然一体となった感触がたまらないのだが、電気を使って温める犬のような家電製品ができたとしても、心地よさはひいにとうてい叶わないだろう。ひいは私に安心感を与えてくれる。この程度の自分が必要とされているのが切ないくらいうれしい。  これでは妻の立場がないような説明になったが、妻がいて、さらにひいがいる日常はこの上もない幸福なのだ。もったいないくらいの身の上である。  では、ひいにとってはどうなのだろう。  この問いへの答を、今日、垣間みた気がする。  朝、動物病院へ一年に一度のワクチン接種を受けるため行った。  ひいは散歩道にある動物病院へ用がなくても近づいて行くくらいだから、嫌いな場所ではないのは間違いない。ただ、何をされるのかわからないため待合室では怯えている。診療室を出るとほっとするらしく、今日は珍しいことに他の犬に仲よくしようよと自ら挨拶をしに行った。  帰宅し自室の机に向かった私に、ひいは「キュウ」と切なく何度も鳴いた。小便がしたいのだろうかと外へ出してやったが、切羽詰まった表情でうろうろするだけだった。もしかして、ワクチン接種後の重い副反応が出たのだろうか。苦しいのだろうか。私と妻は心配した。  とりあえず家に上げ様子を見ることにした。私がひいのそばに付き添っていると、さっきまで切ない声を出していたにも関わらず、のんびり日向を楽しんでいる様子だった。  ひいは何を訴えていたのか。  オトウが自分のためにずっとそばにいると確信できたらしいときの、くつろいでいる姿からこちらに伝わってきたものは、抱えている思いを共有できたとする彼女の満足感だった。動物病院でひいはいつもと違うものを体験し、これまでにない何かを感じたようだ。それが不安な...

犬の神様

 幼い日の私のそばに神様がいた。  私にとっての神様は、悪さをすれば罰を下し、善いことをすれば幸いをもたらす、すべてお見通しの存在だった。これは名前を持っている誰かではなかったが確実に気配を感じられ、しかし姿かたちはなかった。  自分や親さえも持ち得ない、ものすごい能力を持っているもの。自分の今と、この先を左右するもの。唯一絶対の存在だった。  小学校一年生の秋、バラの棘にトンボの頭を刺して殺した。さっきまで飛んでいたトンボの大きな眼が棘に残る。細長い羽がついた胴体は足下に捨てた。もう一匹、同じように殺した。バラにトンボの頭が二つ並んだ。残酷であることが、私を駆り立てていた。だがこのとき、誰もいないはずの庭に気配を感じた。神様の視線だ。  私は罰せられ、もうすぐ死ぬことになるだろうと思った。いまだに、自分はあのときのトンボのように命を失うにきまっていると信じているところがある。  もしかしたら犬にとって人は、幼い日に私の身近にいた神様のようなものなのかもしれない。  私は神様のように人知をはるかに超えた絶対的なものではあり得ない。だらしなく、無力な生き物に過ぎない。しかし、神話の世界の神々がやけに人間くさく、過ちを犯したり、すぐ癇癪を起こすのに人々があがめ奉っていたように、犬の目が見ている人間は畏怖すべき存在なのではないか。善も悪もひっくるめて、自分の今と将来を司っているものなのではないのか。  犬は、犬を気が利かないやっかいなものと思っている節がある。自分でさえ気がつかない願望を、人間は先回りしてかなえてくれる。抱きしめられれば、許されたと安堵できる。見守ってくれる。食べ物を、家を与えてくれる。これはまるで楽園ではないか。  人類が滅び犬が生き残ったとき、犬たちはかつての記憶を頼りに神様と楽園を信じはじめるかもしれない。この神様のありようは、もういない人間そっくりだとしても不思議ではない。  楽園を追放される恐ろしさは、幾多の物語として残されている通りだ。  古い物語を引っ張り出してくるまでもなく、捨てられた犬の不幸を知れば十分で、犬にとっての人間の存在を象徴している。  人と結びつき、自然から遠ざかった犬が悪かったのか。犬を仲間としてきた人が悪いのか。もう、どっちでもいい。一万数千年、いや最近の発見では三万年にもなるかもしれないという、人間と犬の共同生活の...

一宿一飯の仲

  私と妻が朝食を食べようとすると、ひいはテーブルの下にそっとお座りする。脚の間からこちらを覗いているひいに、私は小さくちぎったパンの耳を与える。ひいはがっつくことなくパンの耳を食べ、マズルを引っ込める。しばらくすると、また脚の間に黒い鼻先が現れる。  ひいはパンが好きだからねだっているだけではないと気付いたのは、一年ほど前のことだった。夕刻になり「餌の時刻がきたよ」と私をせっつくのと、テーブルの下で遠慮気味に自分はここにいると静かにアピールする態度は明らかに違うとわかった。  テーブルはオトウとオカアが食事をするところで、そこにあるものは自分のために用意された食べ物ではないし、これを奪ってはならないと理解しているのだろう。オオカミの群れでは上位のものから獲物を奪うのは御法度、という秩序の記憶が犬にも脈々と生きていることになる。  獲物を独占したいのは上位のオオカミにとって本心だろうが、むさぼり尽くすことはせず立場が弱い者に食べ物を分け与える。ここには相手をいつくしむ気持ちがある。なにもオオカミに限った話ではなく、人の世も同じだ。  ひいはテーブルの下で愛を確認しようとしていると思えてならない。オトウがパンの耳を分けてくれた。私はオトウから認められている。オトウは私のことを思ってくれている。ここが私の群れだ、と。  犬は三日の恩を三年忘れず、という。論より証拠、ひいは乳飲み子のときから生後六ヶ月まで育ててくれたAさん夫妻をいまだに慕っている。里子に出た犬の同窓会が行われれば、駐車場でAさん夫妻の車を探し出し、お二人の姿を見るや駆け寄ってしっぽをちぎれそうなくらい振る。三年、四年といわず一生涯、恩を忘れそうにない。  哺乳瓶からミルクをもらい、Aさん夫妻の大切な時間を分けてもらい、風や雨をしのぐ家に同居させてもらったことが恩であり、受けた恩は愛の分け前と理解しているのではないか。  私が台所に立って鶏ガラからスープを取っているのを、ひいがきちんとお座りして見ていた。 「いい匂いがします。その鶏はどうなるのでしょう」  といったところか。  十分に出汁が出たところで鶏ガラを引き上げ、あっちっちと指を水で冷やしながら肉をむしり取る。裂けて喉に刺さると言われる小骨を除く。  この日、私と妻はレンズ豆のスープを啜り、ひいはむしり取られた鶏肉を食べた。...