スキップしてメイン コンテンツに移動

この犬、噛む?


「こんにちは。触ってもいいですか?」
 以前、ひいを散歩させていると小学生の女の子に声をかけられた。
「ごめんね。この仔、臆病だから」
 女の子には悪かったが、パニックを起こしひいが噛んだりしたら双方にとってよいことはないので断った。不測の事態を思い描いたのは、ひいへの興味が高揚しすぎで、悪意はないのだろうが人間本意な具合が見て取れ、この子は犬に慣れていないと直感したからだ。生きているぬいぐるみ、を期待されていたといったところか。
 我が家の隣人である犬を飼っている旦那さんなら、おもむろにひいに近づいても止めはしない。犬との間合いのとりかた、表情の伺いかたをわかっているからだ。「いやだ。こないで」とひいが反応した瞬間に、旦那さんは近づくのをやめるだろう。ましてや、いきなり頭を撫でたりするはずがない。ここに犬との付き合いかたを知っている人と、そうではない人の違いがある。
 私が高校生のとき実家のベランダを修理したのだが、家族が眼を離した隙に飼い犬のダーリンがペンキ屋のおじさんを噛んで流血騒動となった。歯が作業ズボンを貫いたほどだから、ダーリンの怒りは頂点に達していたと思われる。おじさんはいきなり噛まれたと憤っていたし、噛むほうが悪いのは事実なので丁重に謝罪し治療代を包んだが、身贔屓するわけではないけれどおじさんがダーリンに何か余計なちょっかいを出したのが騒動の発端ではなかったか。おじさんは仕事にきたときから、酒くさかった。
 いっぽう、どちらも悪くない場合もある。
 姪が我が家にやってきたとき、ひいを見て「噛む」と怖がった。聞いてみると、よそのお宅で犬に噛まれたと言う。犬が本気で噛んだらペンキ屋のおじさん事件のような流血の大騒動になっていたはずだから、すこしも痛くない甘噛みだったのだろう。そうであっても犬を飼ったことがない者は恐怖が心に影を落とし、犬嫌いになる。犬を怖がる人を犬は嫌うので、ますます危なっかしい事態になる。この悪循環は容易に断ち切れない。
 石垣島の草原で犬の群れと対峙した話をこの日記に「犬は考える」(2012年9月23日)と題して書いたが、彼ら彼女らの群れがそうであったように犬はぎりぎりまで実力行使を避ける術を模索する。どこまでがぎりぎりなのか犬によって違いはあるが、相手に立ち去るくらいの猶予は与え、やたらに噛み付いてくるものではない。その場のやりとりの呼吸は人間同士とほぼ同じなのだが、やはり犬の見かけがいけないのかもしれない。笑って舌を出しても、いざとなればヒグマの厚い皮をも引き裂く牙がちらりと覗く。
「この犬、噛む?」
 数日前、妻がある人にひいの写真を見せたときの第一声がこれだったそうだ。
 妻は笑い出して続けた。
「私も、ずっと昔、友だちの家の犬に会ったとき『この犬、噛む?』って訊いたのよ」
 そして汝もか、ブルータス。
 世界中で挨拶のように、いまこのときもきっと繰り返されている質問。ひいみたいな、小柄な女の仔にも向けられる質問。なんかおかしくなって、私も笑った。
 ひいよ、犬族は人を噛むものと思われてるぞ。体の体積が大きくてヒゲをはやしてるオトウも怖がられるから、お互い因果なものだ。「この人、殴る?」なんて、言われるのは相当なことだからな。

コメント

このブログの人気の投稿

急病かと慌てる

 昨夜、夕飯を食べていたら、テーブルの下からカチャカチャとひいの爪が床に触れる音がし、それは聞き慣れたものと明らかに違った。滑っているような、必死に体勢を立て直そうとしているような気配に嫌なものを感じ、覗き込んでみると、腰砕けになりそうになって後ろ脚を振るわせながら持ちこたえているひいの姿があった。 「なにか変なもの食べた?」  不安に満ちた妻の第一声に、何ごとが起こったか理解できず呆然としていた私は頭から冷水をかけられたような気がした。  椅子から離れ床にしゃがんでひいと目線を合わせると、後ろ脚が麻痺して自由が利かない不自然な歩きかたでひいがテーブルの下から出てきた。時計を見上げる。診療時間は終わっているが、動物病院にまだ誰かがいてもおかしくない時刻だった。動物病院の診察券に記された番号に電話をかける。 「186をつけるか、番号通知電話からお電話ください」  と機械の声がした。  186をつけてみたが、留守電になっている。 「私、走って行って、診てもらえるように頼んでくる」  妻が携帯電話を手に取り家を飛び出した。  ひいはなんとかソファーにあがり、お座りをした。どうしたんだ、ひい。しびれるのか、痛いのか、それとも苦しいのか。私は問いかけつつ、ひいを見守るほかなかった。なかなか妻から連絡がない。かかりつけの動物病院まで、歩いても五分といった所だ。先生と交渉をしているのだろうか。こんなことならと、ひいを抱いて私も動物病院に行こうとしていると妻が戻ってきた。 「今日、水曜だった。休診日」  私たちは曜日すら忘れ焦っていたのだ。  ひいはソファーの上を行ったり来たりしている。もう麻痺している様子はない。しかし、安心してよいとは思えなかった。私は表に出てクルマに乗り込み、カーナビに動物の夜間診療所の住所を打ち込んだ。いつか必要になるかもしれないと保管していた夜間診療所のパンフレットが手元にあるとはいえ、新型とは言い難いカーナビの反応が遅く住所の打ち込みが捗らない。くそったれ。いつも右へ曲がれ、左斜め側道に入れ、直進しろなどと何もかも知り尽くしているような態度のくせして、肝心な時、おまえはなんでこうも役立たずなんだ。  クルマに乗り込みエンジンをかけたせいで、ひいは私がどこか遠くへ行ってしまうと思ったらしく、一緒に乗りたいとクルマの周囲を

メリークリスマス、Ms. ひー

 子供の頃から、クリスマスは特別な日に違いないのだが、さほど重要な感じはしなかった。私にとってメリークリスマスの言葉が心にしみたのは、新潟に住んでいたとき夕暮れからとつぜん小雪が降り出し暖房の熱で窓ガラスが一瞬にして真っ白になった日と、月並みだが映画「戦場のメリークリスマス」でビートたけしが演じた坊主頭のハラが〈 Lawrence 〉と大声で呼びかけ、〈 Merry Christmas, Mr.Lawrence 〉と日本語そのままの発音で言ったシーンの二つだ。  ハラは明日、処刑される。しかし、ハラのみならずこの世のすべてが赦された瞬間だ。一九八三年の公開当時、私にはよく意味のわからなかったハラの「メリークリスマス」だが、いまは胸をえぐると共に遠いところに気配として漂う安堵の存在が確信される。  いろいろなことが私にも妻にもあった今年のクリスマスイブだったが、それは日常の枠の中の出来事で特別なものではなかった。それは、ひいにとっても同じだったろう。犬用のクリスマスケーキもプレゼントも私たちは用意しなかった。しかし、私たちの群れが一緒に何ごともなく一日を過ごせたことを「特別ではない」と言える幸せを噛み締めなければならない。  メリークリスマス、ひい。メリークリスマス、疲れ果てた世界。メリークリスマス、人間たち。

つらいから、やきもち焼きます

 犬を何匹も集めふたつの組に分けて同じことを命じ、一方にはご褒美としてソーセージを、もう一方にはパンを与える研究が行われた。双方、相手側がご褒美に何をもらっているかわかるようにすると、同じことをしてもパンしかもらえない組は次第にいじけ、ソーセージ組を嫉妬した。当然の反応と感じるが、犬にも平等を求める気持ちがあることがわかったと、この実験から研究者は結論づけた。  人と犬が同じくらい不平等に敏感だとしても、皆がみな等しかったことなんてあるだろうか。  この世に平等はない、と言い切るとすこし気が楽になる。  その人が持っている性質つまり個性を尊重しようとする態度と、人は生まれたときから平等であるとする考えは矛盾する。一人として同じ人間はいないのだから、生まれた瞬間から良くも悪くも差がつく。この違い、この差を、他人がどれだけありがたがるか、邪見にするかは時代や国や立場によってまちまちだ。どんな人間として生まれるかだけでなく、生まれてくる時代と場所を選べないのだからどうしようもない。  とはいえ不平等のまま楽しく暮らせる人はほとんどいないので、どこかで扱いを調整することになる。どこで、どれだけ調整するかが難しいし、あちらを立てればこちらが立たずで、望む通りに釣りに合いが取れるとは限らない。だから、この世に平等はないと最初に言い切っておくと、余計な幻想を抱かずにすむ。  ただし、これを他人に押し付けると角が立つ。自分がひっそりと、しかしはっきり意識しておけばよい性質のものだ。  定食屋で常連だけおかずの盛りがよい、というのも不平等だ。でも常連はここに至るまで店にお金を払い続けてきたわけだし、店としては常連の好き嫌いや食べる量をわかっているから手加減できる。一見(いちげん)で、しかも食べ終わってから文句を言うかもしれない客に、特別なサービスがつかなくて当然だろう。要は、常連だからといって盛りをよくしろと求めたり、自慢したりせず、一見であるなら差別されて不平等だと声を荒げる必要もないという話だ。  と書いておいて、ここまで達観しきれない自分がいる。  そして、ひいもまた悩める一匹なのだ。  妻と他愛もない話で盛り上がっていると、どこからかひいがちょこちょこ現れ、私に何度も飛びついてくる。いつもとは限らないが、珍しい出来事ではない。「オカアばっかでなく、私とも!」といったとこ