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一宿一飯の仲




  私と妻が朝食を食べようとすると、ひいはテーブルの下にそっとお座りする。脚の間からこちらを覗いているひいに、私は小さくちぎったパンの耳を与える。ひいはがっつくことなくパンの耳を食べ、マズルを引っ込める。しばらくすると、また脚の間に黒い鼻先が現れる。
 ひいはパンが好きだからねだっているだけではないと気付いたのは、一年ほど前のことだった。夕刻になり「餌の時刻がきたよ」と私をせっつくのと、テーブルの下で遠慮気味に自分はここにいると静かにアピールする態度は明らかに違うとわかった。
 テーブルはオトウとオカアが食事をするところで、そこにあるものは自分のために用意された食べ物ではないし、これを奪ってはならないと理解しているのだろう。オオカミの群れでは上位のものから獲物を奪うのは御法度、という秩序の記憶が犬にも脈々と生きていることになる。
 獲物を独占したいのは上位のオオカミにとって本心だろうが、むさぼり尽くすことはせず立場が弱い者に食べ物を分け与える。ここには相手をいつくしむ気持ちがある。なにもオオカミに限った話ではなく、人の世も同じだ。
 ひいはテーブルの下で愛を確認しようとしていると思えてならない。オトウがパンの耳を分けてくれた。私はオトウから認められている。オトウは私のことを思ってくれている。ここが私の群れだ、と。
 犬は三日の恩を三年忘れず、という。論より証拠、ひいは乳飲み子のときから生後六ヶ月まで育ててくれたAさん夫妻をいまだに慕っている。里子に出た犬の同窓会が行われれば、駐車場でAさん夫妻の車を探し出し、お二人の姿を見るや駆け寄ってしっぽをちぎれそうなくらい振る。三年、四年といわず一生涯、恩を忘れそうにない。
 哺乳瓶からミルクをもらい、Aさん夫妻の大切な時間を分けてもらい、風や雨をしのぐ家に同居させてもらったことが恩であり、受けた恩は愛の分け前と理解しているのではないか。
 私が台所に立って鶏ガラからスープを取っているのを、ひいがきちんとお座りして見ていた。
「いい匂いがします。その鶏はどうなるのでしょう」
 といったところか。
 十分に出汁が出たところで鶏ガラを引き上げ、あっちっちと指を水で冷やしながら肉をむしり取る。裂けて喉に刺さると言われる小骨を除く。
 この日、私と妻はレンズ豆のスープを啜り、ひいはむしり取られた鶏肉を食べた。満腹したあとは、ベッドを分け合いみんなで眠った。


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