オオカミの中で懐っこい者が原始の人に近づき仲間に入ろうとしたのが犬へ連なる歴史の第一歩だが、別の生き物の中に難なく溶け込んだことを懐っこさだけで説明できない。しかも、一万数千年とも三万年とも言われる間、人と切っても切れない関係が続いている。懐っこさはきっかけに過ぎず、双方、群れで生きる似た者同士だったからうまくいったとするほうが合点が行く。
ひいと私たち夫婦の出会いは、太古のオオカミが経験した人との出会いとあまり違いないかもしれない。我が家は、オトウとオカアの小さな群れだった。ふとしたきっかけでひいを知ることとなり、ひいは私たちを好いてくれ、私たちはひいを迎え入れ、二人と一匹の群れとなった。この三者に、血のつながりはない。親子が共に暮らす動物や、一か所に集まって眠る動物はあまたあるが、事情を共有して血の縁や種の違いをものともせず共に生きる動物は稀だろう。
ひいと私たち夫婦にはもうひとつ共通の群れがある。Aさんによって保護され巣立って行った犬と、その飼い主の皆さんが集まる群れだ。これをひいは我が家より大きな単位の群れとわかっているらしい。卒犬の同窓会で出会う犬や人と動物病院などでの行きずりの犬や人は明らかに別ものらしく、初対面であっても後者には向けない友好的で気安い態度をとる。同窓会が催されるドッグランでは他の犬とともに斥候役につき、群れの警備に当たりもする。
人の群れと犬の群れの共通点がここに見いだされる。
血のつながりと同等か、それ以上の意味と事情があって群れができる。
群れとは、異なる者を「ここに居てよい」と「肯定」する集団で、互いが抱える違いを認め合った集まりと言えそうだ。犬を飼うのは珍しいことではないように思われているけれど、犬にしてみれば二本足で歩き鼻も耳も劣っている人間、人間にしてみれば手指が使えず言葉が喋れない犬、が同居できるのは相手の違いを認めているからに他ならない。犬と人の違いをあげればきりはないが、認め合うこと一点を扇の要として群れはまとまっている。
この群れが群れであるためにルールが必要だ。群れの平穏を乱す行いがあれば、その行いは「否定」される。ひいは卒犬の同窓会ではしゃぎ過ぎ、年齢的にお姉さん格で子育て経験があるみのりちゃんに叱られたことがあった。首根っこをガブッと、でも傷つかないように噛まれたのだ。ひいは静かになり、みのりちゃんに反抗することはなかった。これが犬の作法なのだろう。みのりちゃんは、ひいに「群れから出て行け」と言いたかったのではない。「群れの一員として、秩序を守りなさい」と諭したのだ。
否定されたのは行いであり、存在まで否定されたのではない。
何でも許すことが「肯定」とは限らないと、みのりちゃんの教育的指導は示している。「否定」は相手の存在を尊重した上で行われなければならないとも教えてくれている。これは人が犬と暮らす上で忘れてはならない勘所だろう。存在の否定は「拒絶」であり、「拒絶」された者は孤独へ追いつめられ、見放された犬がやさぐれるのは衆知の通りだ。人が社会から拒絶されたと思い詰めたとき自暴自棄になるのと何ら変わりない。
反抗期の私は自分勝手極まる手に負えない生き物だったが、両親は私を見放さなかった。声を荒げても、小賢しい屁理屈を並べても、親であることを放棄しなかった。父と母は、私を守り抜いたのだ。実家にはかつて別の人によって乱暴に飼われていたダーリンという名の犬がいたが、父と母は年老いて寝たきりになった彼を最期まで慈しんだ。「ここに居てよい」のだ、と。ダーリンは父と出会い、新たな群れに認められよき家族の一員となって、死のときまで穏やかだった。
世界を満たす人の群れ、犬の群れ、人と犬の群れは小さなものから大きなものへ同心円を描き、ときに重なり連なっている。オオカミはよその仔であっても、群れの一員であれば愛おしみ養育と教育に関わる。まさに社会と呼ぶべき関係で群れは結ばれている。逆に、社会という言葉だけあって他者を孤立させるのが当たり前となった現代の人間界は、群れではないのかもしれない。
年末から年頭に当たり、柄にもなくやけに大きなことをちっぽけな私は考えた。それは結局、月並みであるが平穏と平和とは何かということだった。
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