ひいの散歩をするとき履く靴を秋の終わりに買い替えた。散歩の途中で汚れても苦にならず、雨の日に水がしみ込まず、こんな期待を裏切られるかもしれないから安いほうがよいと、行きつけのスーパーの自転車コーナーの隣りの特価ワゴンから選んだ。特価品とはいえ、名の通ったメーカーのショートブーツだ。箱に、完璧なまでの防水と防寒の効能が書かれている。とはいえ実用一点張りで、アメリカの田園地方の男がピックアップトラックに乗るとき履くような見かけで、いまどきの日本ではダサイと笑われてもしかたない靴だ。
これが快適この上なかった。箱に印刷されていた説明通りだっただけでなく、気分が楽なのだ。履き心地は元となる木型や材質や製法だけで決まるものでないと思い知らされ、実は気分の軽さがとても重要とわかった。
靴に凝り、メーカーを決め、店を決めて買っていた十年ほど前は、こんなことは思いもしなかった。靴熱が冷めてからも、スニーカーは趣味ではないと言い、普段履きでも布や合成皮革の靴に抵抗があったり、かたちにこだわったりしてきたのだが。
数日前、この靴を買った同じ場所に今度はアウトドア用の長靴が並んだ。「ああ、これだよ。これが求めてるものなんだ」と感嘆している自分に気付いたとき、複雑な感情がこみ上げてきた。いつの間にか、私は父そっくりになっていたのだ。
母は子供だった私に、見合いの席に父が晴天だというのに背広で長靴という出で立ちをしてきた話を幾度もした。父は長靴を履かなければならない職業ではなく、金融関係のそれなりのエリートだった。父のこんなセンスのなさが、子供ながらいやでたまらなかった。
私が成人してからも、靴箱にきれいな革靴がありながら父はぼろぼろになった安物をガムテープで治して履いていて、ケチなのか自虐趣味なのかと、とてもイライラさせられた。このような私が、特価品の長靴に魅かれるとは。実用一点張りのショートブーツを、華やかなショッピングセンターに行くときも履くようになるとは。スーパーで長靴を買っていたら、毎日、出かける度に履いていたことだろう。
長靴に関わる遺伝子などというものはないだろうけれど、父から私へ確実に引き継がれたものがある。歯磨きのとき鏡に映る、年々、父に似てくる自分の顔以上にそっくりなものが体と心の隅々にある。
ひいは千葉県の動物愛護センターで乳飲み子のとき保護されたので、父親と母親がどんな犬だったかわからない。ひいにとっても、眼が見えるようになったときミルクを与えてくれたAさんが親なのだろう。しかし、繊細と言えば聞こえはよいが臆病かつ感じやすい気性や、甘えん坊な性格は、どこにいるとも知れない親から引き継いだ。臆病さにひい自身がうんざりしているかもしれないし、私と妻が弱ることもあるが、誰にもどうしようもないと思ったほうがよいのかもしれない。
これがひいという、世界にただ一匹の犬なのだと。ある犬たちの歴史を、小さな体と心に引き受けていると。
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