私を見つめるひいの眼が語りかけてくる。
好きにすればいいのにと思うけれど、犬にとってはそうもいかないものらしい。
おまえには、勝手に生きるという選択肢はないのか。
猫なら自分がやりたいようにやりたいことをするだろう。猫に限らず、野原を駆ける鹿も、空を飛ぶ鳥も、やりたいようにしている。
犬は、なんて不器用な生き物なのか。
「好きにしていいんだぞ」
「そうは言いますけど、オトウとオカアとひいの群れですから」
反論というよりも、ひいは釈然としない思いかもしれない。
「ひいよ、オトウがいなくなったらどうするんだ」
ひいは、まだ私を見つめていた。
残酷なことを言ってしまったと後悔した。ひいに人間の言葉がすべてわかるなら、泣かせていたところかもしれない。
庭の木で餌付けをすると、鳥が集まってくる。鳥が集まるのは餌があるからにすぎず、餌がなくなれば鳥は去って行く。これは当然だろう。
しかし、ひいは餌だけのために我が家に居るのではない。ドッグランでおいしいおやつを差し出してくれる人がいても、帰るとなると我が家の車にまっすぐ向かう。
また、犬のボスの代わりに私たちに順位づけをして服従しているわけではないのは、初対面であっても人間と犬の違いをはっきり見極めていることから見て取れる。
人はパンのみにて生くる者に非ず、とマタイ伝第四章ある。犬も餌のみにて生くる動物に非ず、だ。人からの愛を失い、愛を信じられなくなった犬は、ひと目でそうとわかるほどやさぐれる。人間がそうであるように。
そしてはじめから、生きる目的が餌だけではない犬という生き物が、この世にいたわけではない。
オオカミが1万5千年前から人間と生活をともにしながら犬になった。犬は人間の狩りを助け、人間を外敵から守り、狩りの時代から牧畜の時代への道筋をつけ、牧畜の時代となってからは家畜の番をした。人間は犬によって大きく変わった。犬もまた、人間と切っても切れない縁で結ばれた生き物へ変わった。
狩りの手助けをし、家畜の番をし、人間の生活に溶け込んだことで、犬は動物界を裏切ったと言う人がいる。裏切りという言葉が正しいか否かは別にしても、動物界に帰る場所がなくなったのは確かだ。
そうまでして、身勝手で思い上がりが激しい人間なんてものに、犬は1万5千年もの間、愛想をつかさなかった。このような犬を、人間が「かわいい」と言い表してよしとするのは傲慢な態度ではないだろうか。
犬からかわいさがにじみ出るのは、愛を欲しているからに違いない。
そして、切実であればあるほど愛の表現はいつも不器用なものと決まっている。
これほど切ない生き物を、「殺してください」と動物愛護センターに持ち込む人間が絶えない。
「次、どうなるんですか。どうしたら、いいですか」
何も知らない犬は、そそくさと立ち去ろうとしている人間に訊いているはずだ。
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