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ひいの世界


 ひいは朝の散歩の時刻を知っている。どんなに早起きをした日も、寝坊をした日も、「散歩はきらいだけど、うんちはしなくちゃならないし」と気乗りしない感じでいつも通りの時刻に私たちの前に現れる。
 夕方の食事の時刻も知っている。以前は午後六時に餌をやっていたが、一時間前からそわそわしだすので、押し切られるかたちで特別なことがない限り午後五時が食事の時刻となった。いまは午後四時過ぎにそわそわしはじめて、五時を過ぎると「あの、あの、忘れてませんか」と態度が変わる。これは日が短くあっと言う間に暗くなる冬も、日が長い夏も、まったく関係ない正確さだ。
 まるで、ひいは時計を持っているようだ。
 その時計は、遅れたり進んだり、電池がなくなれば止まる時計より、よっぽど狂いがない。
 ひいが持っているものは時計だけではない。
 私や妻が外出から帰ってくるすこし前に、気配を察知して玄関へ向かう。そんな高性能なレーダーも身につけている。
 私が外出したときは、こうだ。まず私が身支度を整えはじめることでオトウがどこかへ行くことを知り、なんとなく寂しそうな、しかたないなといった風情になる。私が出かけたあとのひいは、妻によればしばらくオトウの帰りを待っているが、すぐ戻ってこないとわかると寝室のベッドへ行き、私が帰ってくるすこし前に居間などへ移動する。私が玄関のドアを開けると、そこにはひいがいてキュウキュウ啼きながら飛びついてくる。どうも最寄りの駅に到着するかしないかくらいの、足音さえ聞こえないところに私がいることがわかるらしく、これは不思議と言うほかない。
 私や妻が帰るまでの時間はばらつきがあるが、「もうすぐ戻ってくる」とわかるのはいつものことだからまぐれではない。
 いったい、どのような世界にひいは生きているのだろうか。
 私が知らない、ひいの世界を覗いてみたい。ありのままに、見えているもの、聞こえているもの、感じ取っているもの、考えていることを知りたい。
「ひいになってみたい」と言ったら、他人には「なにわけのわからないことを」と笑われるだけだろうけれど。

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