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お尻の話


 散歩から帰ってきたひいは、まず玄関で肉球を拭かれ、続いて肛門を拭かれる。どちらも家の中で暮らすための身だしなみである。拭くのは私だ。
 肉球を拭くためのコマンドは、「あんよ」である。
「あんよ」と聞くと、ひいは玄関の上がりかまちに前脚をかけたかたちになり、まず自ら右前脚を上げ、拭き終えると左前脚を上げ、右後脚、左後脚の順で同様に続ける。
 次はお尻を拭くわけだが、これには決まったコマンドはない。私はしっぽを握って持ち上げ、じっと待っているひいの肛門と肛門の周りをきれいにする。
 以上を終えて、はじめてひいは家に入れるのだ。
 どんなに早く家の中に入りたいとせっかちになっているときでも、「あんよ」のコマンドではじまる身だしなみを嫌がることはない。ひいは規律正しい犬とは言えないけれど、「あんよ」を嫌わないのはほんとうに楽で助かっている。
 犬にとって肉球は生きて行くうえで大切きわまりないところだし、肛門に至っては人間だってやたらに他人に触れられたくない場所だ。そこを拭かせてくれるのは、まずまず信頼関係が築かれている証拠かもしれない。これであと歯磨きのために口を大きく開けてくれれば文句はない。
 先日、居間でひいのお尻を見ていたら、肛門に何か着いている様子だった。
 数日前にひいがソファーに臭腺液をくっつけて、変なものがあるぞと私が指に取っておもむろににおいを嗅いだという、笑い話にするには悲しい騒ぎがあったばかりだ。
 そこで妻は、ひいのお尻を拭こうとしっぽを持ち上げ、ウェットティッシュを肛門に当てた。そのときひいは「いやん」とばかりに身をよじった。
「どれどれ、オイラがやろう」
 私が同じようにしっぽを持ち上げると、こんどは従順にいつもの身だしなみのとき同様の姿勢になった。
 妻は乱暴にしっぽを持ち上げたわけでも、がさつにウェットティッシュをこすりつけたわけでもない。おとなしく従ったのはオトウにはお尻掃除を許すけれど、妻にはちょっと、というひいの気持ちの現れかもしれない。
 こんな些細なことが、妻には悪いが私はたいへんうれしい。
「それは単なる慣れの問題」という声が聞こえてきそうだ。
 たしかにそうかもしれない。
 だが私にとっては、娘といつまで風呂に入れるか考える父親の気持ちに近いのだ。または、いつまで「パパ、パパ」と呼んで自分にまとわりついてくれるかとか。
 人間の女の子なら、いつか父親と距離を置くようになる。そうなってくれないと困る。しかし、父親としたらその日がくることに一抹の寂しさがあるのではないか。人生が変わるほど大袈裟なものではないけれど、ちょっとした喪失感というか。しょうがないよな、なんて感じの。
 でも、ひいはオトウから離れて行かないだろうと思われる。
「犬と人間の子をいっしょにするな」と言われたら、素直に謝るつもりだ。
「ごめんね。あなたの子と、うちのひいを同じだと言うつもりはありません。これは、我が家という群れの話なのです」
 たかが犬のお尻とはいえ、かけがえのない群れの話で、私とひいの思い出となる話なのだ。

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