すこしばかり離れたところへクルマで妻と買い物に行った帰り道、なんとなく音楽を聴きたくなりカーオーディオのスイッチを入れた。CDチェンジャーは、前回、聴きかけだったニール・ヤングのアルバム「After The Gold Rush」の「Tell Me Why」を曲の途中から奏でた。
やぶにらみの目つき、おしゃれとほど遠い小汚い服装、美しいバラードと激しいロックのコントラスト、繊細な詩、上手いのか下手なのかよくわからないギターソロ、911テロ直後にジョン・レノンのイマジンがアメリカで政治的だと自粛されていたが追悼番組で堂々と歌いきった男。バンークーバー・オリンピックの閉会式で、聖火が消える直前にマーティンの生ギターを提げオオトリとして登場したことで、ニール・ヤングをはじめて見て聴いた人もいるだろう。
私は揶揄するつもりでなく、好きであるゆえの感想として「変な声だよな」と助手席の妻に話しかけた。「ロック向きの声じゃない。か細いようで、音域が高くて、でも説得力がある声をしている」
すると妻は、
「歌がとっても上手いわけでもないし。でも、いい曲を書くよね」
と返した。
物干し竿から下ろしたばかりの洗いざらしのジーンズのやさしさ、日に焼け擦り傷がついたヌメ革の財布が醸し出す正直さ、といったものがニール・ヤングにはある。
ニール・ヤングより歌が上手い歌手は何万人、何十万人といるだろう。ギターをなめらかに弾きこなせるギタリストも、やはり同じように数多くいる。しかし、ニール・ヤングのように支持され、ロックの殿堂に入れる者はとても数すくない。
もし、若き日のニール・ヤングに「君はボイストレーニングからやり直さなければ駄目だ。一般的な発声法と音程の正しさを身につけろ。ギターも運指の癖を直さなければプロとして通用しない。デビューはそれからだ」とプロデューサーが指示し、彼が従っていたらどうなっていただろう。それはそれで並以上の音楽家になったかもしれないが、四十年以上も生き残る曲を書き、さらに書き続け、歌い続ける人とはなっていなかったはずだ。このように指示されたり、そうしなければならないと自分で決め、消えて行った人は各界に多い。
一般的で正しいとされるものを学び、自らのものにし、これによって世の中から評価されるようになる人もいる。これが求められる場もある。だが唯一無二のものは、いつも世の中のありきたりから外れている。ありきたりから外れるのは、賭けだ。並の成功を手にしたいなら、賭けに出るのは危険だ。
それでも、思う。人は、やれることしかやれない。
ひいに期待するというか受け入れる側の前提として望むものも、これだ。
群れが平穏であるため必要な最低限の心構えと態度は、ひいに求める。ただし、この範疇から外れるものはひいの生まれ持ったものを尊重するほかない。最初からこう思えたわけでなく、ひいも性格が目に見えるかたちで固まるまでは自分でも自分がわからなかっただろう。今年、五歳になろうとしているひいは彼女なりのやりかたで群れに貢献している。この点を褒めてやらなくて、ほかに何を褒めたらよいのか。
神経質かつ臆病で細かいところが気になり、場の空気に飲まれやすく、いろいろな出来事をあっさり忘れられないのがひいだ。足は早いし、いざとなれば動作は敏捷だが、野生の群れだったら狩りの先頭に立つより群れと巣のまわりの警備にあたり、生まれたばかりの仔の変化に気を配る係といったところだ。先日、土鍋から出汁が吹きこぼれそうになっているのをひいが気付いて教えてくれた話を書いたが、小さな鍋でちょっと無理な数の玉子を茹でているときも「何か危険な兆候があります!」と知らせてくれた。湯玉が飛び、チッチとコンロの上で音を立てていたのだ。だから、「ありがとう。偉かったな」と褒めた。
ひいの速力と敏捷さを生かせばアジリティー競技でよい成績を出せるかもしれない。でもこれは人間側の期待であって、ひいはやれることしかやれない。台所に限らず家や家人、家の周りの異常に気付くことが、どんなメリットがあるのかと問われたら答えに窮する。でも、芸を仕込んで珍しい犬となってテレビに出演することにも大したメリットはない。
そもそも私はやれることしかやれず、これに何の利点があるのかと問われても、「ごめんなさい。あなたのお役に立てなくて」と言うほかない存在だ。
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