美人について考える。美しい人の条件であるから男女を問わない。おやおや、この前提に違和感を覚えますか。私は闘うフェミニストではないから、なんでもかんでも男と女は同じと考えていない。「美人」という言葉に性の違いを含む語が含まれていないから、単純に男女問わずとしてみただけだ。
顔貌を美人の条件として第一に挙げるのは間違いではないが、これだけに限って美人を語るのは美人を卑しめることにならないだろうかと思っている。さらに時代とともに美人とされる顔の基準は明らかに変わる。高松塚古墳に描かれていた麗人の像は、当時の美人。引目鉤鼻は、平安から鎌倉時代の理想像。武人像も同様。浮世絵の美人画や役者絵ももまた、眉目秀麗に現実を誇張したもので、いまだったら萌え絵に喩えられるだろう。だかしかし、このような昔の人が街を歩いていても現代人は美人とは呼ばないだろう。顔の評価は流行に左右される。
したがって現代の美人さんは、生まれてくる時代がよかった運のよい人である。江戸後期から明治時代に撮影された芸妓や役者の古写真を観ると、かなり現代人の美人の基準に近づいているか一致している。とはいえファニーフェイスの美人というものはかなり最近の流行りで、しかもファニーさの基準はころころ変わる。
人を見た目で判断したらだめですよと言われるけれど、いっこうに改善されないところをみると、顔は大切なもので、第一印象は顔くらいしか判断材料がないのである。いやいや優しさのオーラが出てます、という言うもいるだろう。でもオーラって何? 初対面が素っ裸なんてほぼあり得ないのだから、オーラが存在するなら顔貌から滲み出しているのではないか。
顔貌を美人の条件として第一に挙げ、これに限って美人と判定することが当人を卑しめることになるのは、単に流行の顔か否かという問題だけでなく、優しさのオーラとか強さのオーラとかの発信地について考慮されていないからだ。美人だけれど卑しさを感じる人もいるではないか。果たして、このような人物を美人としてよいのだろうかという疑問がある。
なぜなら仕事柄、テレビなどに出てくる世の中から美人と呼ばれる人と面と向かう機会が多数あったが、この人たちが大っぴらに見せているものは演じられた上の性格であり、オーラの切り替えができる人たちだからタレントなのであって、素がなかなか意地悪な人とも数多く接してきた。はっきり書けば不愉快な人々である。彼ら彼女らは、養殖物の美人という言い方もできる。
私は毎朝、ひいに「おはよう」と先ず声をかける。
続いて「今日もいっしょに楽しくいような」と言う。
挨拶の締めとして「ひいは優しい仔だ。ひいは賢い仔だ。ひいは美人さんだ。だから、オトウはひいを守るよ、ひいもいい仔にできるもんな」と撫でる。
ひいにも人と同じように何かを演じている場面があると感じる。だが、基本は素のまま生きている。私にとってだけの美人(美犬)で他の人の基準から遠くてもよいから、天然物の美人(美犬)であり続けてくれと朝に祈るのだ。
私の体調が悪ければ静かに寄り添ってくれ、私と妻の会話に出てくる言葉をかなり憶え、どうしたら適切に行動できるか間違うこともあるが考え、整った姿かたちをしているのだから、私が嘘をついてひいをおだてているのではない。ずっと続けてきたひいへの朝の挨拶は、必ずひいに届いていると信じたい。
人間の赤ん坊は、親からの呼びかけですこしずつ知恵がついて行くのだから。
美しい被毛、澄んだ瞳、穏やかなお顔立ち。ひいちゃん美人さんですね。健康に気をつけてもらって、オトウさんとオカアさんに愛し愛され、精神状態も良いからなのでしょうか。
返信削除まき
まき様、コメントありがとうございます。まあ美人なんて言うのは、我が家で私だけですし、単なる犬馬鹿で恥ずかしい限りです。
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