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オトウがいない


 台風一過の晴れ渡った日の午後、私は思い立って洗車に出かけた。
 近場のガソリンスタンドにセルフ洗車機があり、お金を入れていろいろな洗いかたやコーティング剤をかけるかどうかまで選べる。手洗い洗車より格段に安いし、やることといったらクルマを洗車機が指定した位置まで進め、水流とブラシに包み込まれるのを車内で待つだけだから、多少の出費はあっても自宅で洗うよりそうとう簡単だ。しかも、自分で洗車するより仕上がりがよい。
 猛威をふるった颱風で汚れたクルマが多かったとみえ、セルフ洗車機を使おうとする人が多かった。しかも直前のお客である初老の女性が機械の使い方がわからないらしく、店員を呼んできても説明がなかなかのみ込めず、あっという間に予定していた帰宅時刻よりだいぶ遅れた。
 帰ってきた私をひいが歓迎の舞で迎えてくれるのはいつものことだが、自室の机に向かうとぴったりそばを離れないばかりか、くぅくぅと切ない声をあげた。おしっこを外でしたいと懇願されているのかと思い玄関のドアを開けてやっても内と外をいったりきたりで態度がはっきりしない。
 もしかして、あれか。
「いつものネンネしたいの? オトウとネンネ?」
 ひいは(その通り)とぶるっと身震いした。そして書架で仕切られた寝室のほうを向いてこちらを振り返る。午睡する気分ではないがベッドに横たわると、ひいは飛び乗ってきて体をぴったり合わせるやぱたんと寝転んだ。私が昼食のあと一休みする習慣を知っていて、この憩いのときを共にするのがひいにとって重要なのだ。
 数日後、私は朝早くから出かける用事があり家を昼頃まで空けた。
 この日の喜びの舞は異常なくらいだった。妻によれば、これまでなら寝室のベッドや妻の自室で横たわって私の帰りを待っているのに、家中をうろうろ、玄関の前に行ってみたり、一階と二階を行き来してみたりだったそうだ。あまりに落ち着きがなく不安そうであったため、妻はひいをケージに入れて冷静さを取り戻させようとまでした。ここにオトウが帰ってきたわけだ。
 いつにない動揺ぶりは、たぶん洗車した日の影響ではないか。
 ひいは私や妻、私と妻の外出の様々なパターンを知っている。例えばケージに入れられ、私と妻が共にクルマで出かければ数時間以内に帰ってくるなど。ところが私だけがクルマで出かけた場合は時間が読めない。さらにクルマというものはとても遠いところへ行くことができるナニかであるのも知っている。洗車をしに行った日、ひいは午睡の期待がかなわなかった上に、もしかしたらオトウは遠い所へ行ってずっと帰ってこないかもしれないと混乱し疑ったのかもしれない。
 朝早くからの外出は徒歩だったが、先日の混乱が影響しオトウはずっと帰ってこないかもしれないと思い込んだり、(いや、帰ってくる。でも、いつなのかわからない)と心が揺れたように想像される。
 ひいよ、できることならいつだっておまえを連れて出かけたい。しかし、それは無理なんだ。オトウが頼られているのは嬉しいけれど、愛情あればこそだと思うのだけれど、オトウにはオトウの事情があるのをわかってほしい。
「そういう女の子が世の中にはいてだな、男から面倒なやつと嫌われがちだ。そうはなりたくないだろ。だったら、オトウを信じて待ってろよ」
 さて、ひいは理解したかどうか。

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