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もふもふの功罪


 犬から怖い思いをさせられたことがあったり、動物は不潔だと感じていたりと、犬嫌いにもいろいろある。妻だって、道ばたで出くわした犬の吠え声に怯え、知り合いの飼い犬にもこわごわ手を差し伸べていたという。ところがひいと暮らし、犬とはどのようなものか知るに至り、もふもふした被毛を撫でるのが最上の喜びとなった。
 と書いてふと思ったのだが、もふもふという言葉は皆に通じるものなのだろうか。もふもふとは、動物のふわふわした毛の様子や手触り感、さらにはその動物がいる快適さやかわいさまで言い表すため数年前から使われるようになったもので、同じようにふかもふも使われる。しばしば、動物そのものをもふもふ、ふかもふとも呼ぶ。これで「もふもふ」を説明できたと思うので、ここからは特に意識せずこの言葉を使って行く。
 ところで、「犬は不潔派」の人々はたぶん終生、犬嫌いのままなのではないか。
 最近は盲導犬が電車に乗っている姿をしばしば見かける。訓練のたまもので大人しいうえに、被毛が落ちないよう服を着ている。それでも、やっかいなものが乗ってるとばかりに目つきが変わる人がいる。新聞社がやっている猛々しくやかましいことで有名な人生相談掲示板で、誰かが荒れることを目的に書いたいたずらだとしても、犬のいる家の人がパーティーにもってくる食べ物は汚そうで勘弁してほしいとか、犬のいる家に呼ばれて食事なんてできないなどという話題が登場し、批判者がいる一方で賛同の声が集まる。
 本日の写真は、今夏、アンダーコートを梳くファーミネーターを使って取れたひいの毛だ。ぎゅっと固めてなければ、かさがもっとある。これがもふもふの元であるわけで、大して羊毛と違いはないし、なによりひいのものだから私と妻はもっと溜め込んでフェルトをつくろうとしているが、「犬は不潔派」の人々には気が狂ってるとしか思えないだろう。いくらシャンプーで洗浄後にフェルトにすると言っても嫌悪感は拭えないはずだ。私も妻も、このような人々の気持ちを察し否定する気はないので、こうして写真でしかお見せできないのである。
 ひいのもふもふは私たちにとっては功ばかり、嫌いな人にとっては罪ばかりな訳だ。
 いやいや私たちにとって罪の部分もある。ひいを撫でたり、ぴったり身を寄せているともふもふのせいで時が経つのを忘れ、やらなければならないことを忘れてしまう。眠くなってきて、仕事がはかどらない。
 しかし、ひいは全身のもふもふで訴えている。(もふもふで、みんな幸せ。もふもふでのんびりするのが、群れの平和)と。これだから、飽きっぽい人間が何万年も犬を手放さなかったのだろう。
 犬嫌いの皆さん、家の外でひいを散歩させたり、ときどき吠えたり甘え声が聞こえたりして申し訳なく思ってます。言い訳に過ぎないのは重々承知の上ですが、私たちはもふもふがないと暮らして行けないのです。もふもふによってもたらされる幸せと平和を知ってから。

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