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犬の神様


 幼い日の私のそばに神様がいた。
 私にとっての神様は、悪さをすれば罰を下し、善いことをすれば幸いをもたらす、すべてお見通しの存在だった。これは名前を持っている誰かではなかったが確実に気配を感じられ、しかし姿かたちはなかった。
 自分や親さえも持ち得ない、ものすごい能力を持っているもの。自分の今と、この先を左右するもの。唯一絶対の存在だった。
 小学校一年生の秋、バラの棘にトンボの頭を刺して殺した。さっきまで飛んでいたトンボの大きな眼が棘に残る。細長い羽がついた胴体は足下に捨てた。もう一匹、同じように殺した。バラにトンボの頭が二つ並んだ。残酷であることが、私を駆り立てていた。だがこのとき、誰もいないはずの庭に気配を感じた。神様の視線だ。
 私は罰せられ、もうすぐ死ぬことになるだろうと思った。いまだに、自分はあのときのトンボのように命を失うにきまっていると信じているところがある。
 もしかしたら犬にとって人は、幼い日に私の身近にいた神様のようなものなのかもしれない。
 私は神様のように人知をはるかに超えた絶対的なものではあり得ない。だらしなく、無力な生き物に過ぎない。しかし、神話の世界の神々がやけに人間くさく、過ちを犯したり、すぐ癇癪を起こすのに人々があがめ奉っていたように、犬の目が見ている人間は畏怖すべき存在なのではないか。善も悪もひっくるめて、自分の今と将来を司っているものなのではないのか。
 犬は、犬を気が利かないやっかいなものと思っている節がある。自分でさえ気がつかない願望を、人間は先回りしてかなえてくれる。抱きしめられれば、許されたと安堵できる。見守ってくれる。食べ物を、家を与えてくれる。これはまるで楽園ではないか。
 人類が滅び犬が生き残ったとき、犬たちはかつての記憶を頼りに神様と楽園を信じはじめるかもしれない。この神様のありようは、もういない人間そっくりだとしても不思議ではない。
 楽園を追放される恐ろしさは、幾多の物語として残されている通りだ。
 古い物語を引っ張り出してくるまでもなく、捨てられた犬の不幸を知れば十分で、犬にとっての人間の存在を象徴している。
 人と結びつき、自然から遠ざかった犬が悪かったのか。犬を仲間としてきた人が悪いのか。もう、どっちでもいい。一万数千年、いや最近の発見では三万年にもなるかもしれないという、人間と犬の共同生活の結果だ。あまたいる動物の中で、これほど結びついた二種類の生き物はいないのだ。
 ひいにとっての神は私だ、と驕るつまりは毛頭ない。ひいは群れの大切な一員で、家族の気持ちの拠り所だ。世話になっているのは、私と妻のほうかもしれない。
 だから神様なんて言わずボスでも、オトウでも、オカアと共同の旦那でもいい。ただ、ひいの気持ちを裏切れないと心に刻み続けなくてはならない。ひいは一途に、私を好いてくれている。

コメント

  1. ”ひいは群れの大切な一員で、家族の気持ちの拠り所だ。世話になっているのは、私と妻のほうかもしれない。”

    我家も全くの同感です。
    もう彼らのいない生活なんて考えられません。

    今年の収穫の一つがこのブログに出会えたことです。
    毎回、ひいちゃんの写真と加藤さんの文に深く心が響きます。

    寒さが厳しさを増してきますがみなさまお体大切にしてください。

    ブログの更新を楽しみにしています。

    よい新年を迎えられますように。。

    返信削除
    返信
    1. mabaさん、温かなお言葉ありがとうございます。
      私にとっても、mabaさんをはじめとする読者のみなさんとの出会いが、こちらのブログに移転したことによる今年の大きな実りとなりました。

      犬との生活がはじまると、うちの仔がいない自分や家族の様子が想像できなくなりますよね。月並みで大袈裟かもしれないですが、人生の友であり、文字通りの家族です。

      ひいへの手紙でもあるこのブログは、これからも書き続けて行くつもりです。どうか、お付き合いください。

      心豊かな年の瀬でありますように。平和な日々でありますように。

      削除

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