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「立つな」か「座りましょう」か


 日々、満員電車に乗るのはつらかったし、理不尽な責めを受け心を病んだりしたけれど、広告の仕事をした経験で種々雑多なものに気付かされた。いまは、こんな日常があったことをありがたいと思わなければならないだろうと、自分に言い聞かせている。
 最近は、親切ごかしで不安を煽ったり、暗にほのめかすだけだが根本の部分で何かを断定的に否定し貶す広告が幅を利かしているけれど、このようなものは品性が下劣であり、最終的に広告を目にする者から拒絶される、と会社員一年生のとき教えられた。有能なコピーライターやアートディレクターから教えを聞かされた段階では知識でしかなかったが、この広告の定理は正しいとすぐに身を以て体験した。
 子供から大人まで相手にする巡回展の担当になり、専門外の図面引きから会場の裏方にいたるほとんどすべての業務についた。大声で笑ったり驚いたりするイベントが仕掛けられたアート展だったが、大人と違い子供は興奮すると何をしでかすかわからなかった。座るべき場所で立ち上がって暴れると、他の客が迷惑するばかりか危険な事態になる。「みんな立たないで。危ないよ」と声を張り上げても子供は耳を貸そうとしなかった。だが、「みんな座ろうね。困ってる人がいるよ」と言い換えると、まったく結果が違った。言うことを聞かなかった子供が座ったのだ。
 心理学はこの辺りの現象を理路整然と説明するかもしれないが、私は科学的にどのような違いがあるのかわからない。ただし、否定ではじまる言葉がなし得なかったものを、か弱いと思われがちな言葉が効果をあげたのは事実だ。
 これは、ひいと接していても同じなのだった。
 犬は人間の言葉がわからないと思われやすいが、長年、人と暮らして話しかけられていると、正確な意味までは理解できなかったとしても何を伝えようとしているかかなりのみ込めるようになる。また、人の言葉を理解しようと懸命に耳を傾ける。
 たとえば、ひいと一緒に布団に入り安らぎたいと私が願っていたとする。ひいとしては、布団の上に乗っていても、中に入ってもどちらでもよい気分である。だから、布団をかぶり「こっちにおいで」と言っても迷っている。私は「ひいと寝たいんだ。ゆっくりしたいんだ。温かくなりたいんだ」と囁き、ひいが体をちょっと動かしたところで「ありがとう。ありがとう。オトウの気持ちがわかってくれたんだ」と言う。オトウが望んでいるなら、とひいはやけに優しい眼をして布団にもぐり込んでくる。「ありがとう。入ってきてくれて、ありがとう」と続ける。ひいは「ありがとう」が感謝の意味とわかるらしく、たおやかな動作でほっぺたを私の脚にこすりつける。
 好ましくないことをしでかしたひいは、「○○するな」で叱られたと理解するが、子供がそうだったように肯定寄りの別の言いかたをするほうが効き目がある。私の部屋にいるとき家の外で何ごとかあり、慌て、警戒の姿勢を取り、吠えたとする。「吠えるな」と怒鳴るより「わかった。大丈夫。静かにしなさい」と諭すと、たとえ即座に落ち着かなくとも冷静になるのが早い。
 やや異なるものとしては、「来い」と「行こう」では「行こう」に強く反応する。ひいに声をかけるとき、「来い」も「行こう」も結果的に意味は同じで、どちらも私が望む方向への移動を促している。しかし、「一緒に、行動しよう」と促されるのをひいは好んでいるのではないか。もちろん、ここには私が言葉を発するとき全身から漂わせるニュアンスの違いがあり、これを含めて判断しているのだろうが。
 否定や頭ごなしの命令より、肯定や褒める言葉が共感と納得を生む。言葉は選ばれてはじめて、意図通りの力で他者に届く。怒鳴り声より、囁きのほうが心に届く。言霊(ことだま)と言うと魑魅魍魎(ちみもうりょう)じみてくるが、それぞれの言葉と言葉の組み合わせと声の出しかたに宿るものがあり、導き出される結果は別ものになる。
 広告の定理として憶えたものが、いま犬との暮らしで私を教育している。「言」と「事」は同じものなのだと。

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