ひいの様子がおかしいと気付いたのは妻だった。
私と妻が夕食を終え食卓を離れてソファーに座ると、ひいは二人の隙間に入った。ここまではいつものことだ。ただ、オヤツをちょうだいと訴えなかった。人間が食事を済ますと、おねだりをするのが習慣なのだが。
「さっきから、しょんぼりしてる」と妻に言われ、頭を撫でてやったがたしかに反応がひどくにぶい。何も感じない、といった様子だ。眼はうつろ、だらんと力が抜けた体。かといって、鼻は濡れているし体温も平熱のようなので体調が悪いわけではないようだ。
この表情、この脱力した体、寂しくて心の底が抜け落ちた人のようだ。
だが、気持ちが落ち込むような特別なことはなかったはずだ。
いや、本当にいつもと同じ一日だったろうか。
すこし気になっていたことがある。ひいにとってではなく、私のこととしてだ。
年末から年始にかけて、私は昼過ぎにベッドに横たわる日が続いた。五分、十分とぼんやりすることもあれば、ぐっすり眠るときもあった。私がベッドに横たわると、いつもそこにひいがいた。ひいは掛け布団の隅で丸くなっている日もあれば、布団にもぐり込んできて私の両脚の間に横たわることもあった。この日はなにかと用事があり、ベッドに寝転びたいと思いつつも叶わなかった。
どう考えても、昨日と今日の違いは私が寝室で時を過ごしたか否かくらいのものだ。
ひいにとってどうでもよいこと、と思っていたが違ったのかもしれない。
私とベッドで横たわる時間を、ひいは毎日、楽しみにしていたとする。一人で寝転んでいるのでは得られない心地よさを感じていたのかもしれない。今日も、オトウが来てくれるものだと信じていた。しかし、来なかった。待ち続けた。そのうち、自分はオトウに嫌われたのかと不安になった。この通りだとしたらつらい時間を過ごしたことになる。
二十代の私が、恋人を待って、恋人が現れなかったときの気持ちがよみがえる。はっきり嫌いだと言われるよりやりきれない、絶望を抱えたままの孤独な時間。寒さでかじかんだ指が触れるものの形をわからなくなるように、眼はものを見られなくなり、心は動きを止める。あの感覚を、ひいは味わったのか。
私はひいを呼んで寝室に向かった。
掛け布団を整えている私を、ひいは微動だにせず見つめていた。ベッドに横たわるとき、私はいつも布団の乱れを直す。ひいは察して、一旦ベッドから自ら降りる。だから、いま布団を整えている私が何をしようとしているか彼女は知っている。
掛け布団をめくり中にもぐってひいに視線を送ると、まるでさっきと違う眼を見張る機敏さでベッドに飛び乗り、まっすぐ私の足の間に入り込んだ。やはり、思っていた通りだった。こうなることを、彼女は心待ちにしていたのだ。
布団の中でひいは体をぐっと私の両脚に押し付け、スウェットの裾から出ている臑(すね)を丹念に舐めはじめた。いつまでも、舐めていた。そして、満ち足りたのか眠りについた。
おまえは、オトウを何だと思ってるんだ。まさか、オトウの奥さんのつもりになってないだろうな。そうなると、オカアとややこしくなるぞ。オトウだって、どうしたらよいかわからない。
「なんだ、おまえら」
寝室の様子の一部始終を見ていた妻はあきれ顔で苦笑した。
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